と思っていた夏休みも後約3週間。
娘は今、親友と一緒に5泊6日のキャンプに参加しています。
毎朝、起床後一番に、ドブンとミシガン湖に浸かって目を覚ますらしいです。
寒〜〜〜っ!
でも、冷夏だった7月に比べてようやく夏らしくなり、
キャンプには絶好の天気となってよかったです
さて、ミシガンの公立校は、レイバーデイ=9月第一月曜日までが夏休み。
今年はなんとそれが9月7日なので、
9月に入ってもまだ1週間は夏休みがあるということに、
最近気づきました
でも、冷夏だった7月に比べてようやく夏らしくなり、
キャンプには絶好の天気となってよかったです
さて、ミシガンの公立校は、レイバーデイ=9月第一月曜日までが夏休み。
今年はなんとそれが9月7日なので、
9月に入ってもまだ1週間は夏休みがあるということに、
最近気づきました
今日は一日、家で過ごしました。ゆる〜い日でした。
何度かパニック発作がおきるので、薬を飲みながら・・・
一日中、聖書(旧約)を流し読みしてました。
まず、歴史(真実)があり → 信仰(信じて従う) → 感情
ってことで・・・
感情が揺らいでも、歴史を知り、信じていれば、信仰はゆるぎないものに
なると学んだので〜
今まで、いろんな人か土地の名前かわからない旧約を逃げていましたが
!doctype> さて。。。実は遅くなったがおとつい、とっくに使えなくなっている日本のケータイに残っていたアドレスのうち半分くらいに、1周年のメールを送ってみた(←インターネット時間制やから勘弁してな。残りの半分の人はまだ待っててな。あっ、それと最近このblogにコメントくれた人は送ってないよ。笑)
まあ、さすがにアドレスを変更している連中が多くて、大半は宛先不明?で却ってきたが、早速何人かから返信メールを戴いた(笑)。。。で、その中身なんだが。。。
驚いたことに出産やら、妊娠やら、結婚やら、そんなメールばっかり。。。(笑)
"この世を儚む我が身にはめでたきこととは思えねど、一言祝辞、陳べ賜うのが世の定め"ってところでしょうか??(笑)
しっかしホンマ驚くわ。。。最高齢はなんと43才初産!!年の離れた旦那は定年世代のはず(笑←笑ってる場合でもないような。汗っ)。。。それを筆頭に出産ニュースが2件、妊娠ニュースが2件、結婚ニュースが1件という感じ(笑)
ええいっ!みんなまとめてオメデトー!!と言っといてやるっ!!(笑)ワハハハハハハ(そういや先日の電子妹ご懐妊ニュースもビックリやたな。。。)
しかしホンマこんな世の中に産んでどうすんねんっ!?って感じるのも事実。。。10年後、20年後の日本の社会情勢は甘くないというのが、常識的な判断。。。
-----------結論部より引用----------------
モチロンわたしは予言者でもないし、経済学者たちだって予言者という訳じゃない。だから下に書いたようなことが起こらない可能性だってゼロじゃない??。。。だが起こってからでは遅いのだということは紛れもない事実だ。どんな準備が出来るか知らないが、ここに書いたようなことが起こってもおかしくはないし、いや、本来は起こるはずなのだという前提で生きてゆくしか� ��い。覚悟だけはしといた方がいい。覚悟があって何事もそれほど酷くならなければそれでいいし、その時はわたしを罵ってくれて結構だ。わたしは存在していないから気にもしない。。。(笑)
!doctype>BGM is "God Rest You Merry, Gentlemen".
クリスマスの時期になると,クリスマスに関係した本を読んだり,映画を見たくなります。せっかくの1年に1回しかないクリスマス,この時期に読んだり見てこそ楽しい本やビデオ(DVD)をどうぞ… |
花の詩画集 花よりも小さく
星野富弘 著(偕成社)¥1,400
思い起こしてみると,私がはじめて星野富弘さんの花の詩画を知ったのは,今から15年ほど前のクリスマスに恩師から「四季抄 風の旅」(立風書房)という本をいただいたのがきっかけだった。ご存知の方も多いと思うが,星野さんは「普通の画家」ではない。大学の体育系学科を卒業し,新任の体育教師として中学校に赴任してわずか2か月後にクラブ活動の指導中の落下事故により手足の一切の自由を失った。入院中にキリストの洗礼を受けた星野さんは,故郷である群馬県の東村に帰り,絵筆を口にくわえて絵と詩を書き続けている。
2003年11月に出版された「花の詩画集 花よりも小さく」は,前作(1999年4月刊)の「花の詩画集 あなたの手のひら」から4年ぶり,星野ファンにとっては本当に待望といって よい新刊である。知らない人が見たら,誰が星野さんの詩画を「口に絵筆をくわえて」描いたものだと思うだろう。一つ一つの花の色,表情はますます豊かに,添えられた詩はいよいよ簡潔にして深い。しかし,1枚1枚の絵と詩に込められた星野さんの思いの深さと肉体的・時間的労力の大きさは,私たちの想像をはるかに超えるものだろう。これは決して読み飛ばす,あるいは単に眺める本ではない。1ページ1ページから星野さんの思いと花の命を感じる本である。
星野さんの花の詩画は常に私の心の慰めであったし,これからもずっとそうであろう。星野さんの「花の詩画集」はどの国のどの人の心をも打つであろうと信じる。滞英中に花の大好きな隣のPickwickさんに星野さんの花の詩画集の1冊を英訳版をプレゼントしたと� �,彼女が数日後に驚きと喜びの感想を述べてくれたことは今だに嬉しい思い出として残っている。
本書の表紙を飾る花は「アワコガネギク」である。この花に添えられた詩「花よりも小さくなれ 花の美しさが見える」から本書のタイトルは取られている。クリスマスということにかかわらず,大切な人へのプレゼントとしてこれほどふさわしい本は少ないだろう。星野富弘さんの他の詩画集については別の機会に書きたい。
マローンおばさん
エリナー・ファージョン 作/エドワード・アーディゾーニ 絵(こぐま社)¥1,000
英国の生んだ20世紀最高の女流児童文学作家の一人,エリナー・ファージョンは,一方で珠玉のような詩"Mrs. Malone"を残した。森のそばの粗末な家に一人で住むマローンおばさんは,寒い冬でもパンや薪の一つもないような貧しい暮らしをしていた。誰もマローンおばさんのことなんか気にかける人はいない。ある月曜日,寒さと飢えに凍えたスズメがおばさんの家にやってきた。おばさんはスズメを胸にだいてやり,「あんたの居場所くらいここにはあるよ」と優しく言うのだった。それから,火曜日にはネコ,水曜日にはキツネの親子,木曜日にはロバ,金曜日にはクマがおばさんに助けを求めてやってくる。そのたびにおばさんは「あんたの居場所くらいここにはあるよ "There's room for another" 」と動物たちを家に暖かく迎えてやるのだった。そして土曜日,マローンおばさんは起きてこなかった。天に召されたマローンおばさんを動物たちは天国に連れて行く。尋ねる門番の聖ペテロに動物たちは言う。「ご存じないのですか,(神さま,お恵みを!) わたしたちのお母さん,マローンおばさんを。 貧しくて なにも持ってはいなかったけれど,広く大きな心で わたしたちに 居場所を与えてくれました」 目をさましてあわてて帰ろうとするマローンおばさんに聖ペテロは最後の場面で言う。「母よ,入って王座のそばへ おゆきなさい。あなたの居場所がここにはありますよ,マローンおばさん "Mother Go in to the Throne. There's room for another One, Mrs. Malone"」。この感動的な物語詩を読んでいつも思い出すのは,新約聖書マタイ伝におけるイエス・キリストの言葉,「心の貧しい人々は,幸いである,天の国はその人たちのものである」,「憐れみ深い人々は,幸いである,その人たちは憐れみを受ける。」,「地に富を積むな,天に富を積め。」,「求めよ,さらば与えられん。」…である。これほどクリスマスにふさわしい慈愛に満ちた詩がまたとあろうか。エリナー・ファージョンの生涯のパートナー,これまた英国の誇る絵本作家エドワード・アーディゾーニの格調高いモノクロの挿絵が一層この小さな本の価値を高めている。
ウェールズのクリスマス
ジェーン&マイケル・マース 著/大貫郁子 訳(径書房)¥1,700
著者のジェーン・マースはニューヨークに住むアメリカ人であるが,母方の先祖はウェールズ人という家系である。そのジェーンのおばである今は亡きミムの果たせなかった夢,「いつか自分の本当の故郷ウェールズに帰ってクリスマスを迎えたい。」という夢を果たすため,ジェーンと夫のマイケルは,ウェールズの守護聖人セント・ディヴィッドにゆかりの大聖堂がある由緒ある町St David'sでクリスマスを迎える決意をする。この旅には,先祖のルーツを見つけるというもう一つの大事な目的があった。人口1500人という小さな町,St David'sの人々の暖かい歓迎を受けた2人は,友達となったウェールズ人の老婦人たちと食事を楽しんだり,家々を回る地元のコーラスに参加したり,アーサー王ゆかりの史跡を巡ったりと,ウェールズでのクリスマス休暇を満喫する。しかし,肝心のルーツ(親戚)探しに関しては決定的な証拠がないまま暗礁に乗り上げた形になってしまい,楽しさの中でもジェーンの心はどこか晴れなかった。ところがである。親戚かもしれないということで滞在していたB&Bの女主人が,2人のウェールズ滞在最終日になって,しまい込まれていた古い聖書を見つける。聖書には,1885年にアメリカのペンシルバニアでジェーンの大おじさんガーフが生まれたことが記されてあった。宿を営むロイド家とジェーンは正真正銘血のつながった親戚であったの� �ある。本当に「ウェールズの奇跡」が起こったのだ。
この結末が「出来すぎ」と感じる人にとっても,随所に出てくるウェールズ流のクリスマスの祝い方,つまり独特の習俗,教会のミサ,料理・お菓子などは,とても興味深く楽しいものだろう。文字を持たなかったケルト民族であるウェールズ人は,日本のアイヌと同様,語ることをとりわけ大切にした人たちであるという。だからこそ,クリスマスの晩には皆の前で男たちが詩を朗読する習慣があるらしい。暖炉の前に家族や友人が輪になり,そこで朗読されるウェールズ人の誇り,ディラン・トマスらの詩…。何と暖かなクリスマスの情景だろう。またこの本は,ウェールズ,とくにセント・ディヴィッズを訪れたことのある人にケルトの郷愁を思い起こさせるに違いない。私ももう一度この町を訪れ,町の中心にある古いケル� �十字に触れたくなった。
奇跡への旅 三賢王礼拝物語
ミッシェル・トゥルニエ 著/石田明夫 訳(パロル舎)¥1,500
ミャンマーのサイクロン アメリカは敵意で支援を阻止
サラ・フランウンダーズ
2008年5月15日
Workers World
マスコミのお説教で欠けているのは、ニューオーリンズにおけるハリケーン・カトリーナでの壊滅的なアメリカの実績についての言及だ。
ブッシュ政権はミヤンマーの人々が彼等を襲った自然災害から再起するのを本当に支援しようとしているのだろうか? それならなぜ、この政権は、ペンタゴンが支援を管理すべきだと主張するのだろう? そしてなぜサイクロンが襲おうとしているのが分かっている国に経済制裁を課したのだろう?
今世紀の中で最も激しい暴風雨が、ベンガル湾の低地、隙間なく耕されたミヤンマーのイラワジ・デルタを、5月2日に襲った。そこは肥沃ではあるが低開発地域であり、特に洪水に脆い。デルタにはミヤンマー国民5700万人の四分の一が暮らしている。前回熱帯サイクロンが沿岸地帯の山崩れをひき起こしたのは40年前のことだ。
気象学者たちは、熱帯サイクロンのナルギスを一週間にわたって観測していた。だがサイクロンが上陸すると、予想できない高潮は、最高の規模に達した。高さ3.6メートルの水の壁が、11キロもの内陸まで押し寄せたのだ。
百万人以上の人々が家を失い、何万人もの人々が行方不明になった。推定死者数は、20,000人から100,000人に及ぶ。旧首都で主要商業港湾都市ヤンゴンは修羅場と化した。
アメリカのマスコミは災害の規模と支援活動に対処できない政府の無能さについての話でもちきりだ。アメリカ政府自身の災害支援提供における、計り知れないほど酷い実績は完全に無視されている。
どの新たな記事も、緊急物資運送の為、ミヤンマーに軍隊が自由に入る権利をワシントンが要求していることを繰り返している。ミヤンマーがアメリカ軍航空機の着陸、あるいは海軍艦船の接岸を認めようとしないことに対する怒りと動揺がある。ミヤンマー政府は支援物資を配布する上で信頼を置くことができないという非難が、何度となく繰り返されている。
ブッシュ政権が、犯罪的な計算と計画によって、支援活動を意図的にはるかに困難にしてしまったことは、報道されていないのだ。サイクロン・ナルギスが実際にミヤンマーを襲う前、怪物のような暴風の接近が既に告知され、一週間にわたって観測されてきた中、ジョージ・W・ブッシュ大統領は、ミヤンマーに対する過酷な新レベルの経済制裁に署名した。経済制裁は、侵略行為の一種であり、特に、最も貧しく、最も絶望的なものを標的とする経済戦争の一形式なのだ。
サイクロン襲来に合わせて経済制裁を課した
!doctype>『人類最高の発明アルファベット』を書いたジョン・マンによるグーテンベルクの伝記であるが、おそらく決定版といっていいだろう。富田修二氏の『グーテンベルク聖書の行方』の第二章の伝記と8ページの年譜、高宮利行氏の『グーテンベルクの謎』の略伝部分をあわせ読めば生涯のあらましはたどれたが、中世ドイツの知識のない者はあちこちでつまづいた。
グーテンベルク家は貴族だったが、われらがヨーハンは母方の祖父が貴族でなかったために貨幣鋳造のギルドにはいれず、その屈辱が発明の原動力となったとされている。しかし貴族がギルドにはいるなどということがあったのだろうか?
マインツでは貴族と市民の抗争が激化し、市民が虐待の報復として貴族の邸を破壊したのでグーテンベルク家のマインツから避難しなければならなくなったとされているが、貴族が市民を「虐待」とはどういうことか?
グーテンベルク家のもともとの姓はゲンスフライシュだったが、マインツに「グーテンベルク」という名の邸を手にいれたので、別の家系から手に入れた「ラーデン」とあわせてゲンスフライシュ・ツール・ラーデン・ツム・グーテンベルクと称するようになり、略してグーテンベルクと呼ばれるようになったとあるが、ではゲンスフライシュとグーテンベルクは日本の姓と苗字のような関係なのか?
われらがヨーハンの聖書刊行プロジェクトに事業家フストが出資したとあるが、15世紀に「事業家」がいたのだろうか? そもそもフストとは何者なのか?
!doctype>
聖カタリナ修道院 Saint Catherine Monastery は、
エジプト、シナイ山の麓にある峡谷の河口、
シナイ半島に位置するギリシア正教教会の修道院の名称です。
1884年、西暦381〜384年頃に書かれたと見られる、
古の手記の断片がイタリアのある図書館で発見されたことで、当時の聖地の
様子やシナイ半島地域の修道院群での修道生活の様が描かれいたのが注目されました。
この手記の一片には 「聖なる地」 から書かれた旅行記の一部、
そしてエルサレムにおける復活祭の詳細な叙述が含まれていました。
手書きの文書はエゲリアという名の女性の手によるもので、
ラテン語で書かれていて、彼女は聖地や、旧約聖書によりモーセが神から十戒を
授かった地とされる、シナイ山やその周辺にある多くの場所を訪れていました。
聖カタリナ修道院は527〜565年の間に皇帝ユスティニアヌス1世の命により
建設され、コンスタンティヌス1世の母親であるコンスタンティノポリスのヘレナが
建設を命じた、「燃える柴」を教会で囲みました。
この教会の場所はモーセが神の言葉を授かったとされる
!doctype>【ドレスデン クルト・レウィン】
また上の紫霄閣(ししょうかく)サイトには短くドレスデン爆撃はクルト・レウィンが計画立案したとありました。この人物はジョン・コールマン氏によればたタヴィストック研究所の重鎮で300人委員会のキーパーソンです。一般的には「行動心理学」の最初の提唱者と言われています。
------------------------------------------------------------------------------
小渕内閣 経済企画庁長官に起用された 堺屋太一氏の訳本。マリリン・ファーガソン著『アクエリアン革命』という本である(『水瓶座の陰謀』)。内容は 水瓶座の時代を向かえ「透明な知性」をもった人間が無意識のうちに繋がって意識レベルでの革命がこれから起こると言い。そのためには、意識のフレーム(枠組み)を変える必要があるといった内容である。キーワードとして「透明な知性」が用いられている。
この『アクエリアン革命』はタヴィストック研究所と関連があるようである。米の80年代から90年代のグランドデザインとなった運動の一貫であり、そのものずばりなのだと思う。
三百人委員会にその関係が述べられている。以下抜粋します。
三百人委員会(ジョン・コールマン博士著、歴史修正学会訳、徳間書店1994年)から
!doctype>李 登輝(り とうき、リー・テンフェ、1923年(大正12年)1月15日 - )は、中華民国の政治家・農業経済学者。元・中華民国総統(1988年 - 2000年)。コーネル大学農業経済学博士、拓殖大学名誉博士。信仰する宗教はプロテスタント・長老派。日本統治時代に使用していた名は岩里政男(いわさと まさお)。
蒋経国の死後、その後継者として中国の歴史上初めて民主的な手続きを経て一国のトップとなった。中華民国総統、中国国民党主席に就任し、中華民国の民主化・本土化を推進した。中華民国が掲げ続けてきた「反攻大陸」のスローガンを下ろし、中華人民共和国が中国大陸を有効に支配していることを認めると同時に、台湾・澎湖・金門・馬祖には中華民国という別の国家が存在するという「中華民国在台湾」を主張、その後さらにこの国のことを「台湾中華民国」と呼ぶようになった。北京政府との内戦状態の一方的終結宣言は、内戦を理由に存在し続けてきた治安法「動員戡乱時条款」を廃止させ、政治の「民主化」を推進させることとなる。また、総統在任中経済発展についても大きな成果を上げている。
総統職と国民党主席を退任した後は、「台湾」と名前の付いた初めての政党「台湾団結連盟」を自ら中心となって結成し、「台湾独立」運動の事実上の指導者と考えられている。
1923年1月15日、台北州淡水郡三芝庄(現在の新北市三芝区)埔坪村の「源興居」で李金龍と江錦の次男として生まれる。兄は2歳年上の李登欽(日本名:岩里武則)であり、日本統治時代にフィリピンにて大日本帝国海軍二等機関兵(戦死後、「上等機関兵」)として日本軍人として参加し戦死している。このほか弟の李炳男がおり、こちらは貿易業に従事していた。
父・金龍は警察官であり、経済的に安定した家庭環境により幼少の頃から教育環境に恵まれていた。父の転勤にしたがって登輝は6歳から12歳までの間に汐止公学校、南港公学校、三芝公学校、淡水公学校と4度の転校を繰り返した。淡水公学校卒業後は私立台北国民中学(現在の大同高級中学)に入学したが、1年後の1938年には淡江中学校に転校している。淡江中学校では学業に専念し首席の成績で卒業、卒業後は台北高等学校に合格している。
台北高等学校に入学した登輝は、1年次に台湾総督府が推進した皇民化運動の中で展開された改姓名運動の中、岩里政男と改名。流暢な日本語を話す。本人も「21歳(1945年)まで自分は日本人であった」と表明している[1](現在も来日時は日本語を使用している)。
1943年9月、台北高等学校を卒業。同年10月、京都帝国大学農学部農業経済学科に進学した。農業経済学を選択した理由として、本人によれば幼少時に小作人が苦しんでいる不公平な社会を目の当たりにした事と、高校時代の歴史教師である塩見薫の影響によりマルクス主義の唯物史観の影響を受けたこと、農業問題は台湾の将来と密接な関係があると思ったことを理由として挙げている[2]。
大学時代は日々深刻になる食料不足問題に悩みながらも、自ら「農業簿記」を学び、同時にマルクスや河上肇などの社会主義関連の書籍に親しんでいた[3]。戦争が激化すると、ほかの文科系学生と同じように学徒出陣により出征する(農業経済学を専攻している学生は、農学部所属ではあったが、文系として扱われた)。大阪師団に徴兵検査第一乙種合格で入隊し、1944年に台湾に一時帰って基礎訓練を終えた後、日本に戻り習志野陸軍予備士官学校(日本陸軍予備士官第11期生)の見習士官に任命され、その後名古屋の高射砲部隊に陸軍少尉として配属になり、終戦を名古屋で迎えた。ちなみに、召集された際、日本人の上官から「お前どこへ行く?何兵になるか?」と聞かれ、迷わず「歩兵にしてください」と言い、加えて「二等兵にしてください」とまで要求したところ、その上官から「どうしてそんなきついところへ行きたいのか」と笑われたという[4]。また、1945年3月10日の東京大空襲の際には、超低空で帝都へ侵入するB-29を迎撃、激しく砲撃を繰り返し、かなりの損害を与えたことを述懐している。
1945年に日本の終戦を迎え、日本軍撤退後の1946年の春、国民党占領下となった台湾に帰り、台湾大学農学部農業経済学科に編入学した。帰国して間もない1947年、二・二八事件が発生する。それまでの経歴から判るとおり二等国民扱いだった台湾人としてはもちろん、日本人としても非常に高度な知的訓練を受けており、この事件の際は真っ先に粛清される危険性を持っていたため、知人の蔵にかくまわれた[5]。
呉克泰の証言では、台湾に帰国後間もなく、彼の要請を受け、(中華人民共和国の建国、中華民国の台湾実効支配が行われる1949年の前)1946年9月に中国共産党に入党し、国民党による二・二八事件に反発する暴動などに参加したが、2年間で離党したという[6][7]。また、中国共産党に入党した登輝がのちに中華民国副総統に昇進したとき、国民党は「共産党員」という登輝の記録を故意に破棄したという。
このことに関して、共産党員になるには党組織による観察が一年以上必要なので、台湾に引き揚げてから二・二八事件が発生するまでに共産党員になるのは不可能だとする意見がある[8]。
2002年のインタビューで、登輝は自身が共産主義者であったことを認めた。登輝は同インタビューの中で、共産主義理論をよく理解しており、共産主義は失敗する運命にあることを知っているので、共産主義には長い間反対していた、と述べた。登輝は、自身の国民党への強い憎悪のために共産党へ入党した、とも述べている[9]。
1948年に農学士の称号を得る。1949年、台湾大学を卒業し、同大学農学部の助手として採用された。同年、淡水の地主の娘であり、台北第二女子中学(日本統治時代は台北第三高女と称し現在は台北市立中山女子高級中学)の曽文恵と見合いにより結婚している。
1950年に長男李憲文を儲け、1952年に中美(米)基金奨学金を獲得しアメリカに留学、アイオワ州立大学で農業経済学を研究した。1953年に修士学位を獲得して中華民国に帰国、台湾省農林庁技正(技師)兼農業経済分析係長に就任する傍ら、台湾大学講師として勤務することになった。
その後1957年に中国農業復興聯合委員会(略称:農復会)に就職、研究職としての職歴を重ねた。同時に台湾大学助教授を兼任した。また、1961年にキリスト教に入信する。
1965年、ロックフェラー財団及びコーネル大学の奨学金を得てコーネル大学に留学する。同大学では農業経済学を専攻する。1968年5月に農業経済学博士号を獲得。このときの博士論文である Intersectional Capital Flows in the Economic Development of Taiwan, 1895-1960 (1895年から1960年の台湾の経済発展におけるセクター間の資本の流れ)は全米最優秀農業経済学賞を獲得し、1971年にコーネル大学出版社から出版されている。博士号を受けて1968年7月に台湾に帰国、台湾大学教授兼農復会技正(技師)に就任している。
!doctype> Anne Frank/B. M. Mooyaart/Eleanor Roosevelt(1993)The Diary of a Young Girl BANTAM BOOKS, USA;アンネ・フランク(1929年6月12日ドイツのフランクフルト生まれ)は、十三歳の誕生日(戦時中の1942年6月12日),テーブルに日記帳があるのを見つけた。戦時中,アムステルダムの自宅に住んでいた時のことである。1944年8月4日,アンネたちの逮捕後,支援者のオランダ人ミープ・ヒースが,部屋に散乱していた日記類を密かに回収・保管。戦後,1945年6月,収容所から唯一人生還した父オットー・フランクは,支援者ミープからアンネの日記を渡され,家族や知人に配慮して日記を編集し,関係者に少数タイプし配布した。その後,日記はHet Achterhuis(隠れ家)の書名でオランダで刊行,評価され,1952年,ルーズベルト元大統領夫人エレノアの序文を得て,英語版「一少女の日記」を出版。これがベストセラーになり,世界各国で翻訳,日本でも1952年『光ほのかに−アンネの日記』が刊行。
《Anne Frank and the Holocaust - related Web sites》/アンネのいとこ:バディ・エリアスさんのお話/福山市ホロコースト記念館/アンネ・フランクの年譜》/アンネの恋人ペーター・シフの写真
◆2012年4月「アンネの追憶」が公開されるが、これはアンネの親友Hannah Goslarの証言を記録したAlison Leslie Gold著Memories of Anne Frank: Reflections of a Childhood Friendを映像化したもの。
◆2011年9月2日・9日(金)午後9時,NHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」ルドルフ・ヘス及びレニ・リーフェンシュタールに出演。
◆2011年7月刊行『写真・ポスターに見るナチス宣ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社では、日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
◆2011年3月2日,BBC News"Sony apology over Japan boy band Kishidan's Nazi gaffe"によれば、親衛隊の制服を着用したTV演出をしたSony Music Artists・Entertainmentは、ユダヤ人団体(Simon Wiesenthal Center)の抗議を受け、関係者すべてに深く謝罪し,この映像を放映せず、制服も破棄したと伝えた。
◆2010年10月30・31日,武蔵野芸能劇場の「空の記憶」で、大人になったアンネの思いが演じられた。
◆2009年10月1日,ユーチューブOfficial Anne Frank Channelで,1941年,隣人の結婚式に窓から顔を出すアンネ・フランクの動画(20秒間)が無料公開された。この一日で本サイトのアクセスは1万3000件を超えた。人種民族差別への関心が高まっていることが実感できた。
◆アンネの日記類は,2009年11月1日からアンネ・フランク博物館で,永久展示。これは,日記3冊、短編小説をつづったノート、気に入った言葉を書き留めていた用紙など、アンネ自身が書いたもの。1944年5月から日記を破れやすい用紙数百枚に書き直していたが、そのうちの40枚も交代展示される予定。日記類はアンネの父オットー・フランクがオランダ戦争資料館(Netherlands Institute for War Documentation)に寄付したもの。
◆NHK海外ドラマ「アンネの日記」が放映され,2009年7月31日-8月13日で本サイトのアクセスは3736件に達した。
◆2009年7月30日,国連教育科学文化機関(UNESCO)は、貴重資料の保存と認知度向上を目的とした「世界記憶遺産」(Memory of the world)に「アンネの日記」が「世界中で読まれた書籍トップ10のうちの1冊」として,登録したと公表した。
【2009/2/5/AFP】ローマ法王ベネディクト(Benedict)16世は,アルゼンチンの放送局が放送した,スウェーデンのTV番組でガス室は存在しなかったと発言した英国リチャード・ウィリアムソン(Richard Williamson)司教の破門を約20年ぶりに解除。アンゲラ・メルケル(Angela Merkel)独首相は3日、法王の行動は看過することはできないとし、バチカン当局に対し、ナチス・ドイツのホロコーストが「否定できない事実だと明確にすること」を求めた。
◆2009/2010年,NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』にゲスト出演。1944年7月21日(事件翌日),アンネは日記に,若いドイツの将校,伯爵によるヒトラー暗殺未遂のニュースを書きとめ,ヒトラーが倒されれば軍事独裁政権を作って連合国と講和したであろうと予測。
写真(右)アウシュビッツ収容所に到着したユダヤ人:写真はYad Vashem (イスラエル・ホロコースト博物館)引用。アウシュビッツ収容所とは,アウシュビッツ第一基幹収容所,大規模なガス室のあったアウシュビッツ第二収容所(ビルケナウ絶滅収容所),軍需工場のあるアウシュビッツ第三収容所ブナの総称で,アウシュビッツ=ビルケナウ収容所ともいう。現在のポーランド南部オシヴェンチムにあった。ユダヤ人,ロマRoma ("Gypsies")),ソ連軍捕虜などが収監され,アンネも2ヶ月間いた。列車でアウシュビッツに到着したユダヤ人たちは,下車後,労働可能者は,収容所や工場で奴隷労働に従事させられた,労働不能者に選別されると,一時収容後あるいはそのままガス室で処刑された。しかし,それを知らないユダヤ人は,家族が一緒にいることを希望した。ユダヤ人虐殺は,冷徹に考えられた効率的な仕組みで,ユダヤ人が反抗しないように,労働すれば自由になれると錯覚させた。
1944年5月3日のアンネの日記「一体全体,こんな戦争をして何になるのでしょうか。なぜ人間はお互いに仲良く暮らせないのでしょうか。何のためにこれだけの破壊が続けられるのでしょうか。」
「いったいどうして人間は,こんなに愚かなのでしょうか。私は思うのですが,戦争の責任は,偉い人や政治家,資本家にだけあるのではありません。責任は,一般の人たちにもあるのです。そうでなかったら,世界中の人々はとうに立ち上がって,革命を起こしていたでしょう。」
アンネは,戦争の大量破壊・大量殺戮に対する大きな懐疑を呈していると同時に,総力戦における一般市民の重要性を認識していた。「人間の持つ破壊の欲望,殺戮の欲望」がプロパガンダによって煽動されていることを見抜いていた。
しかし,アンネは絶望してはいない。同じ日の日記末尾:「一日ごとに自分が精神的に成長してゆくことを感じ取れます。オランダ解放が近づきつつあること,自然がいかに美しいかということ,周囲の人々がいかに善良であるかということ,この冒険がいかに面白く,意味深いものであるかを感じています。だったら,なぜ絶望しなくちゃならないのでしょうか。
じゃあまたね,アンネ・M・フランク」
写真(上)アンネ・フランクの第一冊目の日記原本:1942年6月12日十三歳の誕生日プレゼント:アンネは,1942年12月まで,半年間,この日記帳をつけた。第一冊目なので,写真も多数貼ってある。第二冊以降は,学校ノートや紙切れ(ルーズリーフ)に日記をつけた。1944年8月,15歳でヴェステンボルクWesterbork収容所,ついでアウシュビッツ収容所に送られた。2ヶ月後,ベルゲン=ベルゼン収容所に移送され,病気で衰弱,1945年3月頃死亡。1944年3月25日「死んでしまった後も生き続ける仕事がしたい」と日記に書いたアンネは,それを果たした。日記原本の写真は,United States Holocaust Memorial Museum(米国ホロコースト記念博物館)引用。
Johanna Hurwitz/Vera Rosenberry(1999) Anne Frank: Life in Hiding (Avon Camelot Books) 「アンネ・フランク:隠れ家の生活」アンネは,日記に「後ろの家」と名づけ刊行する事を夢見ていた。日記の文章は,表現が軽妙で,内容も濃い。親族・同居人・友人に対する酷評,ペーターとの恋愛、男女への興味にもページを割いている。そこで,微妙な箇所を削除,修正して出版された。出版物「アンネの日記」の普及版、完全版、研究版という区分は、編集や出版社の都合による。日記原本は、日記帳、複数の学校用ノート・会計帳簿、多数の紙切れに書かれており,それらは,戦時中の潜行生活、物不足を反映して、中古で既に書き込みのある紙やノートだった。これが,日記は,アンネの筆跡でない,自作でないとの誤解を生んだ。
The Diary of a Young Girlは,1952年刊行「アンネの日記」英語版で,ベストセラーになった。アンネは,ホロコースト犠牲者の象徴になったが,それゆえ,当初は,アンネの存在自体が疑われ,「日記」を貶めるプロパガンダが展開された。日記を読まないうちに,日記の文書は,十三四歳の少女が書けるものではないと思い込み,姉マルゴーや他人のノート書き込み・戦後に研究者や編集者が書き込んだボールペンや鉛筆の書き込み・筆跡を取り上げて、日記が捏造だと誤解した。「アンネの日記」原本が、複数の日記帳・中古の学校用ノート・中古の会計帳簿、中古の多数の紙切れ(ルーズリーフ)から構成されていることに思い至らず議論している。戦時中の潜行生活・物不足の中で手に入れた「日記を書いた紙」は、新品ではなく、劣悪な紙や書き込� ��の古紙だった。日記の真偽は,裁判・科学的検証によって明らかにされたが、日記捏造説,日記焚書の発生は,ユダヤ人虐殺の歴史を共有できていないことの証明でもある。
◆アンネ・フランクは,アムステルダムの隠れ家から一切外出ができず,親衛隊SS・ドイツ秘密警察(ゲシュタポ)・オランダ警察(グリューネ・ポリツァイ)に発見されることを恐れていた。ユダヤ人迫害の恐怖と不安を克服しようと日記を書き進めた少女は,魂の内側で思索を深め,社会的関心を広げた。表現力も,書体も豊かになった。けれども、文才に恵まれてた大人では,あのような生の文章を書くことはできない。
アンネの日記を「十三四歳の少女が書いたはずがなく大人の捏造だ」と喧伝する者は,自分の文才と比較したのか、日記を読んでいないかであり、少女の鋭敏な感覚にも,25ヶ月間の苦しい隠れ家生活の恐怖にも思い至ることがない。
◆アンネ・フランクは,迫害の中で身体的に拘束され、� �自由に苦しんだが、そのことがかえって,アンネの魂を自由にした。少女は,限りない精神世界を形成し,その一端を「複数の日記帳や多数の紙切れ」に書き記した。それは、若者の、少女の理想主義,向学心を綴った生の文章だ。
戦争では,祖国防衛,民族・家族を守るの戦いとして,戦争の大儀,聖戦が語られてきた。戦争を望まなかった女性も子供も,戦争に巻き込まれた。アンネ・フランク(1929年6月12日ドイツのフランクフルト生まれ)も,1939年9月,僅か十歳で第二次世界大戦に直面した。
オランダは,1940年6月,ドイツに完全に占領され,連合軍による欧州解放が待望された。日記には,ラジオ放送に聞き耳を立てて,一喜一憂する隠れ家住人たちの様子が生き生きと描かれている。
しかし,アンネ・フランクは,戦争は民族栄光の歴史だという戦争英雄叙事詩、聖戦や自存自衛の戦いはなくなることがないという戦争必然説・ニヒリズム(虚無主義)を信じてはいなかった。戦争は政治の延長線上にあるとするクラウゼヴィッツ亜流の戦略論に� �陥らなかった。
Miep Gies/Alison Leslie Gold(1988)Anne Frank Remembered: The Story of the Woman Who Helped to Hide the Frank FamilyTouchstone Books :「日記」以外にも,アンネ・フランクに関する映画や演劇が作られた。しかし,隠れ家住人を助けたオランダ人の活躍も見逃せない。日記に実名で登場する(ありふれた名前の)ミープ・ヒースMiep Gies(1909-)が語る人間味溢れる物語からは,婦人のやさしい気遣い,ユダヤ人を危険を承知で庇護したレスキュアーズの勇気が伝わってくる。そこには,ユダヤ人迫害に協力した,あるいは協力せざるを得なかったオランダ人の話も出てくる。ミープは,アンネが亡くなった事をオットーから聞いて,アンネの日記をオットーに渡した。女同士の信義として,日記はアンネに直接返そうと考えていたが,それが不可能になったからである。
<「アンネの日記」読書感想文>
日本の学校生で,「アンネの日記」を手にした人は多い。しかし,全部読んだ人は少ない。ある教諭は,図書人気投票で2名しかいなかった「アンネの日記」を第一位に偽装したという。十三四歳の少女が「アンネの日記」のような名文を書けるはず� ��ない,という大人は,日記本文を読んでいないに違いない。日記を通読すれば,前半では,家族,隠れ家の住人の話,個人的な不満,後半は,ペーターに関することなど,日常の出来事が多い。
読書感想には「若干の退屈なエピソード(Wikipedia)」といった読み方から,「アンネに年齢が近かったせいもあり、親近感を感じた(Amazon.co.jp)」「私は異国の少女の考え、想い、そして好きなものや嫌いなもの、夢中になれるものなどが、自分とまったく変わらないと知った」として,現在の自分と戦時中の隠れ家生活をしていたユダヤ人アンネとの親近性を示すものも多い。
「軍事マニアから見て,興味ある部分は殆どなし。」「情勢を巡る話しもあるが、寧ろ大半は思春期の少女の内面の話しである」「戦争ものとか抜きにし� ��、アンネの悩みながら成長しようとする姿勢はすごいなと思う。ただ、長いので飽きた。不謹慎だけど-----デュッセルさんが何者かに殺された!デュッセルさんはみんなに嫌われていたので、みんなに動機はある。犯人はこの隠れ家の中にいる!みたいな展開起こんないかな〜って、思うぐらいイベントが少ない。」
このように,日常の出来事の記載が多い「アンネの日記」の行間に示されている戦争や人種民族差別への関心は,必ずしも高くはない。アンネの置かれた状況を抜きに「日記」を読めば,親近感からくる評価が至当かもしれないし,親近感から,戦争や差別への関心に向かうこともある。実際,戦争と差別に思い至った少年少女の読書感想文も少なくない。
6年B組 川口は,「『人と話したい。自由になりたい。お友達がほしい。ひとりになりたい。そしてなによりも・・・おもいきり泣きたい。たくさんの願望に胸がはちきれそうな気がしますし、泣けばずいぶんさっぱりするでしょう。でもそれができません。』どうして。今の時代にはごく自然にできることができなかったのだろう。」として迫害の時代と現代の自分との差異を明確に意識している。
中2年・浅井は,「私には今日も学校という世界があり、私をいろいろな角度から見てくれる先生や友達がいる。これから私はどれだけたくさんの自分と出会うことだろう。新しい自分の像と出会うたびに嬉しいと思ったり、反対に深く思い悩んだりすると思う。そういうことを繰り返しながら、限られた空間と人たちの中でしか生きることのできなかったアンネの人生に時に思いをはせ、無限の空間とたくさんの人たちの中にいる自分の人生をしっかりと歩んでいきたい。」と,時代背景を理解した上で,将来の希望を掴み取った。
1年 大河 は,「おなかが空いたら何かを食べるし、部屋が暗いと思ったら何時だって電気をつけて明るくすることができる。自分が欲しいものは、充分なお金さえあれば手に入れることができる。バスだって電車だって車だって乗れる。私は十六歳の高校一年生だけど、日本の高校生なら、ほとんどの人がこんな生活を送っているはずだ。----ごく普通の生活だ。では、これが民族だとか、宗教の違いだとかで縛られてしまったらどうなるだろうか。」とアンネを襲った人種民族差別の恐怖と不安を自分に置き,思索を深めた。
高等学校3年 斉藤は,「今になって読み返してみても、戦争の中の『日常』を私は勘違いしているのに気づいた。アンネの日記には、喧嘩の絶えないこと、支えてくれる人たちへの感謝、家族や共に暮らす人々への不満など、あらゆる感情が書かれている。私は彼女の日記から、悲しみの感情ももちろんのことだけれど、戦時下であっても、人は当り前の「日常」の感情を、簡単には手放せないのだと改めて実感した。 今も続く戦争の渦の中で暮らす人々も、きっと同じように「日常」の感情を持っている。私は、毎晩安心して眠りたいと改めて考えることはないが、世界には毎晩安心して我が家で眠れない子どもたちがいることを、新聞で知った。----夜、安心して眠りたいというのも『日常』の誰もが持っている感情だが、それを満たせる人と満たせない人がいる。満たせる人は、そんな感情も忘れてしまっているけれど、忘れてはいけないのだ。『日常』の感情が一番単純で一番大切な感情だと忘れなければ、人の命を平気で奪う戦争は起こらないのではないか。」と,平和と戦争と接点を日常に認識し,戦争の本質を読み取った。
向陽小学校6年 辻は、「私はアンネたち、ユダヤ人がなぜあのような差別を受けなければならないのか、いまでも納得がいきません。みんな同じなのに差別するなんでおかしいです。私だったら差別なんかしたくないです。そんなことをやっても、人が傷つくだけだし、いいことなんて一つもないです。もしも、自分がユダヤ人だったら…と考えると私はぞっとします。そんなことを考えずに、こんな行動をとったヒトラーを許せないという気持ちが込み上げてきました」と差別に反対する姿勢を明らかにしている。
新池中学校2年 中村谷は、「私の今の生活は、食べ物や衣服に不自由なく、自分の意思で行動を決めることができます。私は、それが普通で当り前の様に感じていましたが、アンネから考えてみれば、これ以上の贅沢や幸せはないと思います。アンネは日記帳に「人間は、本当は良い人だと信じます」と書いてあります。アンネはこんな恐ろしい時代の中でさえ人を信じて恨まず平和を願っていたことに、私は感動しました」と日常生活を安寧におくることへの感謝とアンネの強い意志に共感している。
◆『アンネの日記』を行間まで読み,ユダヤ人迫害と戦争の理由・経緯を知れば、人種民族の差異,戦争の大義が如何なるものであろうとも、差別と戦争は、人類が自ら同胞に対して犯してきた愚行であることが確信できる。差別と戦争は起こってしまったのではなく、人類自らが引き起こした。経済力と軍事力に支えられた迫害と破壊・殺戮を見れば,戦争は政治の延長にすぎないというニヒリズムの愚かさ,冷淡さに気づかされる。だが,我々の祖先も、私たち自身も加担した迫害と戦争を再び見つめるには、勇気と内省が求められる。
序 帝国主義と人種民族差別:ナチスの反ユダヤ政策
1.ファシズムの台頭とナチスの政権獲得
(1)ナチスの政権獲得・反ユダヤ政策
1933年1月30日,アドルフ・� ��トラーが首相に任命され,ナチス党The Nazi Party (NSDAP)がドイツの政権をとると,突撃隊stormtroopersによるユダヤ人への迫害,ユダヤ人商店の破壊が横行した。アンチ・セミティズムAnti-Semitismは,人種民族差別の意識・偏見にとどまらず,ナチスドイツによる基本的人権の制限・迫害となった。
言論の自由が封じられ,ドイツ民族の優越性,ユダヤ人の邪悪性に疑念を抱く反ナチスの思想・言動は、弾圧された。
ロシアのボルシェビキ(共産主義者)政権,その煽動による革命の波及を恐れた保守政治家・資本家・宗教家の一部は、ファシズムを反共に利用しようとした。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)は,ユダヤ人が狡賢い,貪欲な資本家だ,暴力革命を企てている,としてアンチ・セミティズムAnti-Semitismを喧伝し,第一次大戦の敗戦,ベルサイユ条約によるドイツ 抑圧は,ユダヤ人の陰謀とされた。
ファシズムは,軍備と領土を拡張し、世界秩序の再編成を唱え,ヒトラーは、東欧・ソ連にドイツの生存圏(Lebensraum)を獲得することを1925年の著作『我が闘争』で公言していた。ドイツ人弱体化を企てるユダヤ人は,共産主義者で,ペストと同じように人種汚染を進める下等劣等人種であるとアンチ・セミティズムAnti-Semitismを主張した。
◆ヒトラー『我が闘争』では,ユダヤ人が共産主義と結びつき,ドイツの弱体化を企てているとした。ユダヤ人が操る共産主義のソ連,ユダヤ金融資本に踊らされているアングロサクソン大英帝国と堕落した物質文明アメリカが,ドイツの勢力拡大を妨害する,と考えた。下等人種劣等民族ユダヤ人は,優秀なドイツ人を人種汚染する。ユダヤ人共産主義者がソ連を支配し,ユダヤ人金融資本がアメリカと大英帝国を操って,ドイツに戦争を仕掛けようとしている。したがって,ドイツの敵ユダヤ人を排除しなくてはならない。
1933年2月、国会放火事件後、テロを企てたとして共産主義者・反体制派を一斉検挙,基本的人権を制限する大統領緊急令を発布,3月、全権委任法Ermächtigungsgesetz(Enabling Act of 1933)によって、ナチ党独裁を議会に認めさせた。ナチスは,暴力を用いて,一見すると合法的な一党独裁を成立させた。
1933年5月の焚書対象は,主にユダヤ人作家だった。「本を焼くものは,人をも焼くようになる」とのハインリヒ・ハイネの言葉通り,8年後,ナチスによるユダヤ人虐殺が本格化する。
アンネの父資産家のオットー・フランクOtto Heinrich Frank(1889-1980)も,1933年,ドイツのユダヤ人迫害を前に,オットーは,オランダのアムステルダムで新たに事業を展開することを決めた。フランクフルト・アムマインから,オランダ国境近くのアーヘンに移り,1933-34年にオランダに亡命・移住した。
<アンネの国籍・市民権>
1929年6月12日、ドイツのフランクフルトでドイツ人の両親の間に生まれたアンネは,ドイツ人である。しかし、ナチ党のユダヤ人迫害が強まった1934年3月、フランクの一家は、アンネ5歳の時、オランダのアムステルダムに移住した。この事実上の亡命によって、ドイツ国籍を消失したとすれば,一家は無国籍者となる。アンネは、戦時中の日記に「立派なオランダ人になりたい」と書いたが,1934年に移住してきたため、オランダの国籍は持っていない。
◆マザーテレサの国籍についても,厳格に規定・合意できないほど,人種民族の区分は,曖昧である。人種の連続的な特徴変化・DNAをふまえれば,肌の色,鼻の形,目つき,体臭を基にした人「種」など存在しない。身体的特徴の違いは,「亜種」にすぎない。
(2)独裁者ヒトラー総統の誕生
1934年8月2日,国家元首ヒンデンブルク大統領が死去すると,アドルフ・ヒトラー首相は,大統領職を兼務,新たに総統(Führer:フューラー)の職に就いた。そして,ドイツ軍全兵士に陸海空総司令官を兼ねる総統への絶対忠誠を誓わせた。
ポスター右:ドイツ少女団(Bund Deutscher Mädel)「青年による総統への奉仕」Jugent dient dem FührerChris Crawford引用。
ポスター右:ヒトラーユゲント(Hitler-Jugend)「明日からの将校」Offiziere von morgenDer Zweite Weltkrieg 引用。「私は,若者から始める。われわれ大人は疲れ果てている。----ドイツの大人は,屈辱的な過去の重荷を背負わされている。---しかし,青少年たちは,実にすばらしい。この世に,これほどのものたちはいない。若者や少年を見よ。なんという逸材だろう。彼らがいれば,新しい世界を作ることができる。」1933年,ドイツの青少年は,アンネやペーター・ファン・ペルス(アンネの恋人)などユダヤ人は,下等人種と信じていたのであろうか。
ヒトラー総統の「偉業」は,第一に,全国に規律を行き渡らせたことである。労働者のストライキやデモは鎮圧され,労使協調が図られた。そして,青少年は,ヒトラーユーゲントで,鍛えられた。
ヒトラーユーゲントHitler Jugendは1922年設立。1932年の団員数は5万5000名に過ぎなかった。1933年にナチス政権が成立すると,団員数は1933年末に56万8000名に増加する。その後,キリスト教団体,社会民主党・共産党主導のドイツ少年少女団体は,圧迫され,解散された。1936年,解散メンバーを取り込み,ヒトラーユーゲントの団員数は543万7000名に急増,1936年ヒトラーユーゲント法The Hitler Youth Lawによって,全ドイツ青年が加盟を義務付けられた。
ローマ教皇Benedictus XVI(ドイツ人Joseph Alois Ratzinger)も1941年,14歳で加盟,1943年,16歳でミュンヘンのBMW工場を守備する高射砲部隊に配属。
ヒトラー総統は,ニュルンベルク党大会で「これから千年間、ドイツは二度と革命を経験することはない」と「ドイツ第三帝国Das Dritte Reich は千年続く」と予言した。
ユダヤ人差別として,1933年4月,公職追放,7月, ワイマール共和国後のドイツ・ユダヤ人の国籍の剥奪,10月,著作禁止,1934年,医師.薬剤師新規就労禁止,1935年7月,兵籍剥奪,9月,ニュルンベルク法制定,11月,選挙権剥奪,医師・教授・教員への就業禁止と続いた。
ニュルンベルク法は,下等人種ユダヤ人がドイツ人の血を人種汚染するとした「ドイツ民族の純潔をドイツ国民に存続させる」人種差別法である。ユダヤ人を,似非科学で定義した上で,ドイツ国籍者・ドイツ系民族と結婚することを禁止した。
1938年11月、ナチス突撃隊 Sturm Abteilungはユダヤ人商店を破壊したが,これは,ガラスが飛び散った「クリスタルナハトKristallnacht(水晶の夜)」(Novemberpogrome 1938 )と呼ばれた。
ナチスによれば,ユダヤ人は,共産主義者として,反ドイツの策謀を巡らしている。アメリカでは,新聞・ラジオ・金融システムを駆使して,政治家を選挙と資金を通じて操り,民主主義の名の下に衆愚政治を行っている。卑怯な悪賢いユダヤ人は,第一次大戦時,背後にいて,共産主義を広め,ドイツ民族を打ち倒す陰謀・革命を企てたと,ナチスは喧伝した。ソ連の共産主義もアメリカの拝金主義も,ユダヤ人支配の表裏である。ユダヤ人にとって,イデオロギーは優秀なドイツ人を貶め,人種汚染をするための手段である。このような人種民族差別・迫害が,ドイツ政府によって公然と行われた。
⇒ナチス政権ヒトラー総統の再軍備・人種民族差別・思想統制
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このコラムはインド料理には全く関係ないんだけど、 だけど、色々楽しい事があったなあと思い、私の長年の歴史(笑)を綴っていきたいと思います。
皆さんの疑問は、何故私がインド人と結婚したのか?と第一に思われると思いますが、正直な所、この人と友達になっておけば、本格的インド料理が作れる様になるな。
友達にインド料理が作れると自慢出来るな。と思ったという事に尽きます。あまり物事を深く考えないので、絶対幸せにするからと毎日プロポーズする夫に出来ないと思うけど、なら挑戦してみる?という感じで結婚致しました。
結婚は、まず、籍を入れるのも大変でしたが、(インドコラムに記載)新居を探すのが、これまた大変で、当時はバブルが崩壊して下っていた時期だったのですが、建設関係の仕事はまだまだ多く、インドや、パキスタン等から� ��稼ぎ外人が東京には一杯来ていたのでした。
インドからは当時観光ビザがいるので、
インド人の来日はちょっと大変だったのですが、
パキスタンからは双方ビザフリーだったらしく、どんどんパキスタン人がやって来るんですね。それで、パキスタン人とインド人ってのは仲が悪いのですが、外国日本での事、道で出会えば、情報交換をする訳です。
取りあえず、日本に来て、出稼ぎして
お金を貯めて、送金すればいいわけで、税金も払わなくていいし、少々法に触れても平気な訳です。
そこで住居費を浮かす為に彼らは一つの部屋に大勢で住む訳です。道で同じ国の人と出会えば、情報交換。私も田端にあるマンションを訪れた事がありますが、山手線田端に歩いて5分2K(家賃8万)に8人〜10人位 住んでました。
どうやって過ごすか、、、押し入れが二つありましたが、2段ベッドとなってました(笑)上にも下にも人が寝ていましたよ。それで4人は寝られますからすごいもんです。夫の友人だった訳ではなく、夫が道で声をかけられて、ご飯に招待されたんですけど、違う意味で感心しました。
埼玉県川口市なんかは当時、そういう出稼ぎがぞろぞろいまして、駅前にはアジア、中東系外人がうろうろしてるので、部屋を探しやすいのかな。と思って、川口で部屋を探そうとしたんですけど、私が不動産屋に夫同伴で入ると、「こんにちは。」も言わないうちに、「駄目駄目、部屋はないよ。」と断られていました。
何処の不動産屋に行っても同じ。よっぽど大家さんは困ってるとは思ったけど。
ちゃんと職にも� ��いているインド人なのに、部屋が探せないのはどうかな?夫がアメリカ人ならなあすぐに部屋貸して貰えたんだろうな。と今後の結婚生活を考えて、暗〜い気持ちになりました。結果として、夫を連れての不動産探しは断念して、私一人で行いました。自分の名刺を出したら、夫がインド人だと伝えるも、すんなり部屋が決まりました。
これは、結婚第一の大きな試練。大きく考えさせられる事件でした。
インド人と結婚した私が言うのも何だけど、外国人のかたまりはちょっと怖いものです。私が住んでいた東京の綾瀬にはパキスタン人やイラン人が大勢いまして、結構群れで歩いていたりします。
そして、新聞でもそういう人達が日本人を殴っただとかいうニュースが新聞に載ったりしていたもんですか ら、私は常にインド人を見てるけど、さぞかし、外国に縁のない方は怖いだろうなあと思ったものです。
私の夫は自分はきちんとしたビザがあって、働いているのに、と
こぼす事がありましたが、、そう!そうなんです。ビザを持っていない人の方が金持ちだったりする訳です。
何故なら、雇う側は大きな企業は別だけど、小さな所は儲かればいいんです。労働基準法無視して、安く働いてくれる労働力があれば、オッケーです。それでビザのない人達でも何かと仕事が見つかったりする訳です。
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Sub Sample()
Dim intYear As Integer
Dim intMonth As Integer
Dim intWhich As Integer
Dim intWeek As Integer
intYear = InputBox("N")
intMonth = InputBox("")
intWhich = InputBox("扽T̗jłH")
'恛Ťj̏ꍇ
MsgBox CountWeekday(intYear, intMonth, intWhich, vbMonday)
'恛T̉Ηj̏ꍇ
MsgBox CountWeekday(intYear, intMonth, intWhich, vbTuesday)
End Sub
――――現役最高齢医師に聞く |
まもなく95歳になろうとする日野原重明氏は、聖路加国際病院を始めとする7つの財団の理事長を務める。90歳からはじめた遺伝子と老齢化と健康メカニズムの研究や、海外にまで広がりをみせる新老人運動を展開するなど、いまなお精力的に活躍する。 その一方で、130万部のミリオンセラーとなった『生きかた上手』(ユーリーグ)などの数多くの著作を通じて、医療人の立場から国民を広く啓蒙してきた。 日野原氏に「医療の問題点」や「看護教育」「医学教育」について、その持論をうかがった。 |
聖路加国際病院 |
560 名前: 名無しじゃなきゃダメなのぉ! 投稿日:2012/04/06(金) 21:32:34.74 ID:QFsEghGm!doctype>17時ぐらいにビックカメラのサイトで詳細が出てたけど、今は消えてる?
ロストヘブンとか四季がどうこうって書いてあった気がするんだけど日本ファルコムの大人気RPG「軌跡」シリーズの完全新作『那由多の軌跡』がPSPで登場!
舞台設定、キャラクター、ゲームシステムなど全てを一新!■ ファルコムPSP作品の集大成!
空・零・碧と続く軌跡シリーズで培われてきた、緻密な世界観描写や壮大なストーリー展開、そして、ファルコムが得意とする爽快感あふれるアクションRPGの長所を組み合わせた集大成作品として新たな「軌跡」を制作!■ 多彩なアクション
スキル(剣技)/アーツ(四季魔法)/ギアクラフト(特殊能力)の3種類のアクションにより、スピーディで派手な戦闘シーンを演出!各アクションはボタン一つで発動可能になっているため、シンプルな操作で爽快感のあるバトルを楽しめる仕様になっています。