聖カタリナ修道院 Saint Catherine Monastery は、
エジプト、シナイ山の麓にある峡谷の河口、
シナイ半島に位置するギリシア正教教会の修道院の名称です。
1884年、西暦381〜384年頃に書かれたと見られる、
古の手記の断片がイタリアのある図書館で発見されたことで、当時の聖地の
様子やシナイ半島地域の修道院群での修道生活の様が描かれいたのが注目されました。
この手記の一片には 「聖なる地」 から書かれた旅行記の一部、
そしてエルサレムにおける復活祭の詳細な叙述が含まれていました。
手書きの文書はエゲリアという名の女性の手によるもので、
ラテン語で書かれていて、彼女は聖地や、旧約聖書によりモーセが神から十戒を
授かった地とされる、シナイ山やその周辺にある多くの場所を訪れていました。
聖カタリナ修道院は527〜565年の間に皇帝ユスティニアヌス1世の命により
建設され、コンスタンティヌス1世の母親であるコンスタンティノポリスのヘレナが
建設を命じた、「燃える柴」を教会で囲みました。
この教会の場所はモーセが神の言葉を授かったとされる
マザー·テレサはそれを行う
燃える柴が見られる場所で、ここに生息する低木は原生のものであるという。
現地はユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教の3大宗教から、神聖視されています。
修道院の中庭には 「十戒」 で有名な 「燃える芝」 と称される芝が現在でもあります。
実際に見ると少し(多いに?)ガッカリとするような芝ですが、
なぜ、これが「燃える芝」 か説明を真面目に聴いていなかったので分からないのです。
ご覧になった方は、映画の 「芝」 と全く違うので.........
燃える芝と称されている植物
ときに主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた。
彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。
モーセは言った、「行ってこの大きな見ものを見、
なぜしばが燃えてしまわないかを知ろう」。
主は彼がきて見定ようとするのを見、
神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。
彼は「ここにいます」と言った。
神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。
イーライは、名前を何を意味している
あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。
出エジプト記 3・2−5
修道院には、アレキサンドリアの聖カタリナは、初めは車輪で処刑されることを宣告されます。
しかし、この車輪刑が失敗に終わったため彼女は打ち首の刑に処されて殉教してしまいました。
伝承によれば、天使が彼女の遺体をシナイ山へと運んだと言われています。
800年ごろ、当時のシナイ修道院の修道士が彼女の亡き骸を発見し、
この時、エジプトはムスリムの国であったため、シナイ山に連なる巨大な連峰に
建てられていたこのキリスト教の修道院は、初期キリスト教のエジプト出身とされる致命、
女聖人カタリナの名を使用することができたのです。
そのために聖カタリナの巡礼地ともなっています。
修道院が所有し、ムハンマド本人により署名されたものとされる文書によると、
修道院がある種の政治的亡命施設として容認されるようになった後、
ムハンマドは敵から身を守るため修道院に身を隠したともされています。
こうした理由と修道院領内にファーティマ朝のモスクが建てられたために、
イエスの"魂と神性"とは何です
修道院は長年に渡る一帯のイスラム教支配下でも生き延びることができたのです。
7世紀中に、シナイ山にいる孤立した隠者が
排斥されて補強された修道院のみが残こりました。
修道院は依然としてそれを守る巨大な防御施設により囲まれています。
20世紀まで、入り口は外壁の高い位置にあるドアを通じたものでした。
1099〜1270年までの十字軍の時代より、シナイ山における十字軍の存在が
ヨーロッパのキリスト教徒の興味を駆り立て、
修道院を訪れる向こう見ずな巡礼者の数を増してしまった。
「バジリカ聖堂」と呼ばれる主聖堂他、
複合施設にはかけがえのない美術品が収容されています。
その中には、ギリシャとロシアのイコン、司祭の装身具、聖餐杯や聖遺物箱がります。
最も重要なことはこの修道院では、
5世紀と6世紀における、初期イコン作品の拠点となっています。
旧約聖書を題材とした最も古いイコンもここに保管されています。
修道院は、シナイ山正教会全体を構成しています。
この教会は修道院の大修道院長でもある大主教により率いられる自治正教会でもあります。
大主教は伝統的にエルサレム総主教庁より叙聖されています。
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☆ 画像は、ウィキペディア Wikipedia からお借りしています。
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