2012年5月19日土曜日

ハロウィン - Wikipedia


ハロウィン、あるいはハロウィーンHalloween, Hallowe'en)は、ヨーロッパを起源とする民族行事で、毎年10月31日の晩に行われる。ケルト人の行う収穫感謝祭が、他民族の間にも行事として浸透していったものとされている。由来と歴史的経緯からアングロ・サクソン系諸国で盛大に行われる。

ケルト人は、自然崇拝からケルト系キリスト教を経てカトリックへと改宗していった。カトリックでは11月1日を諸聖人の日(万聖節)としているが、この行事はその前晩にあたることから、後に諸聖人の日の旧称"All Hallows"のeve(前夜祭)、Hallowseveが訛って、Halloweenと呼ばれるようになった。そもそもキリスト教の教えと、魑魅魍魎が跋扈するハロウィンの世界は相容れるものではなく、聖と俗との習合がハロウィンという名称のみに痕跡を残している。

ケルト人の1年の終りは10月31日で、この夜は死者の霊が家族を訪ねたり、精霊や魔女が出てくると信じられていた。これらから身を守るために仮面を被り、魔除けの焚き火を焚いていた。601年にローマ教皇・グレゴリウス1世が宣教師にケルト人へキリスト教改宗の策として、「ケルト人の信仰法である木の伐採は行わずに、木の真上にはキリストの神様がいてそのために木を信仰し続けなさいと広めなさい」と言ったのが今のハロウィンになったきっかけでもある[要出典]

これに因み、31日の夜、カボチャ(本来はカブ。スコットランドではカブの一種の「スィード (swede) 」を用いる[1]。)をくりぬいた中に蝋燭を立てて「ジャック・オー・ランタン (Jack-o'-lantern) 」を作り、魔女やお化けに仮装した子供達が近くの家を1軒ずつ訪ねては「トリック・オア・トリート(Trick or treat. ご馳走をくれないと悪戯するよ)」と唱える。家庭では、カボチャの菓子を作り、子供たちは貰ったお菓子を持ち寄り、ハロウィン・パーティーを開いたりする。お菓子がもらえなかった場合は報復の悪戯をしてもよい。

現代では主にアイルランド、イギリス、アメリカ、カナダ、プエルトリコ、ニュージーランド、シーランド、そしてオーストラリアの一部に広まっている。これらの国ではハロウィンが盛大に開かれるが、プロテスタント信徒が多いせいもあって、その翌日にあたる諸聖人の日には通常、これといった行事は催されない。宗教改革以降、プロテスタント諸国ではカトリック教会の祭日である諸聖人の日が徐々に廃れたため、ハロウィンのみが残された格好になっている。

アメリカの一部の学校では、ハロウィンがキリスト教由来の行事ではないことから、「ハロウィンを行わないように」という通達が出されることがある[2]

2012年5月17日木曜日

4章 1節 (2)世界の様々なくらし


ここから本文

世界は広くて、いろんな食べ物や遊びがあります。みんな違うように見えるけれども、よく見てみると・・・日本と同じ?日本と違う?

このほかにも日本と似ている外国の習慣やものを探してみましょう。

お米の食べ方

タイとフィリピンの写真は、『国際協力』誌2001年3月号より


子どもの遊び方

※子どもの遊び方の写真4点および解説はすべて(特活)開発教育協会提供


世界の風景

広大な自然、伝統的な街並み、高層ビル街など、私たちは世界のそれぞれの場所で、同じ時間を過ごしているのです。


世界の生活

日常生活の様子が、国によってどのように違うのでしょうか。
気がついたことを発表してみましょう。

2012年5月16日水曜日

政治における「権謀術数」(アメリカの黒人解放の歴史) - 闇の図書館・美術館 - Yahoo!ブログ


○政治における「権謀術数」(アメリカの黒人解放の歴史)

 

 

 アメリカ合衆国は「民主主義国家・他民族国家」であり、多くの民族が溢れている。しかし20世紀までは、「黒人差別を平然と行う名前だけの『民主主義国家』」であった。そんな「黒人に対する人種差別」と戦った勇気あるアメリカ人を三人紹介。ただし、一人は白人の「偽物」。二人は黒人の「本物」。

 

 

その1.「偽物の黒人解放者」エイブラハム・リンカーン大統領

 

 

 

 

 なぜ、リンカーン大統領が「偽物の黒人解放者」なのか不思議に思う人もいるかもしれない。世界史の授業で、リンカーンは『奴隷解放宣言』を出して「黒人奴隷を解放」し、「人民の人民による人民のための政治」という名台詞を残した「偉大な人物」として紹介されたことを覚えている人もいるだろう。が、実のところ、彼は「黒人奴隷の解放」などやっていない。

 

 大統領リンカーンの時代にアメリカが北部・南部に分裂した「南北戦争」が起こったことは有名だ。黒人奴隷の解放を主張する「北部」とそれに反対する「南部」との戦いは、大統領リンカーンの活躍によって「北部」が勝利する。だが『奴隷解放宣言』が出された後、「黒人への差別」が消えた訳ではない。その理由を知るには「南北戦争」の正体に迫るのが近道だろう。

 

「アメリカの南部の経済」は「黒人奴隷」を働かせて大量の「綿花」を栽培させ、イギリスに輸出することで成り立っていた。これに対して「アメリカの北部の経済」では「産業革命」が起こり、「工場で働く多くの労働者」を必要としていた。

 

 そこで「北部」の有力者たちが目をつけたのが「南部の黒人奴隷」であった。「北部」の人間の本音は「黒人を北部へと移住させ、北部の工場で働かせる」ことである。ただし、障害があった。「黒人」たちは「奴隷」であり、「南部の奴隷の持ち主」から離れて北部へ移住することはできない。そのため「北部」の有力者たちは「黒人たちを奴隷にするのは人の道に反している」と人情に訴えた。この考えに賛同し、民間レベルで「黒人解放」のために努力した人々はいた。

 

 しかし「北部」の人間たちにとって「黒人奴隷の解放」など「どうでも良かった」のである。「南部から黒人を奪い、北部で働かせる」ことこそ彼らの本当の目的なのだから。そしてリンカーンは「北部」の代表者であるため、「偽物の黒人解放者」にならざるを得なかった。

 

2012年5月14日月曜日

ムスリムが豚肉を食べない医学的理由


慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において

 

はじめに

聖クルアーンでは、次のように述べられています。

 信仰する者よ、われがあなたがたに与えた良いものを食べなさい。そしてアッラーに感謝しなさい。もしあなたがたが本当にかれに仕えるのであるならば。かれがあなたがたに、(食べることを)禁じられるものは、死肉、血、豚肉、およびアッラー以外(の名)で供えられたものである。だが故意に違反せず、また法を越えず必要に迫られた場合は罪にはならない。アッラーは寛容にして慈悲深い方であられる。

(第2章172-173節)

 あなたがたに禁じられたものは、死肉、(流れる)血、豚肉、アッラー以外の名を唱え(殺され)たもの、絞め殺されたもの、打ち殺されたもの、墜死したもの、角で突き殺されたもの、野獣が食い残したもの、(ただしこの種のものでも)あなたがたがその止めを刺したものは別である。また石壇に犠牲とされたもの、くじで分配されたものである。

(第5章3節)

 言ってやるがいい。「わたしに啓示されたものには、食べたいのに食べることを禁じられたものはない。ただ死肉、流れ出る血、豚肉 -  それは不浄である -  とアッラー以外の名が唱えられたものは除かれる。だが止むを得ず、また違犯の意思なく法を越えないものは、本当にあなたの主は、寛容にして慈悲深くあられる。」

(第6章145節)

 かれはただ死肉、血そして豚肉、並びにアッラー以外の名が唱えられ(屠殺され)たものを禁じられる。だが欲望のためだけではなく、法を越えず、迫られて止むを得ない者には、本当にアッラーは寛容にして慈悲深くあられる。

(第16章115節)

 至高偉大なるアッラーは、死肉、血、そして豚肉を不浄であるとし、食べることを禁じられました。アッラーは万物の創造主であり、ムスリムは唯一アッラーだけが立法者であると信じています。人間の視野や知識は非常に限られていますが、アッラーのそれは広く深く限りなく、アッラーはあらゆるものの内と外を知っています。光り輝く外観は人間を迷わすことができますが、アッラーはその下に隠されているものをも知っています。人間の創造主であるアッラーは人間にとって善いものと悪いものを最もよくご存知であり、主であるアッラーのみが命令の権限をもっています。ですからムスリムはアッラーの命じられたものに従い、アッラーの禁止されたものを避けるのです。

アッラーが人間に豚肉を禁じられたのは、それを避けることが人間にとって善いからです。そして現在、科学の進歩に伴い、豚肉を避けることによって得られる善のいくつかが分かりはじめました。

ここでは豚肉を禁じられたアッラーの英知の一部について、医学的見地からの報告を紹介します。

 

ムスリムが豚肉を食べない医学的理由

 私たちの健康は食べ物や飲み物一つで非常に違ってきます。ですからイスラームが私たちの食べ物や飲み物の摂取に関して教え指導しているのは当然のことといえるでしょう。イスラームは健康で健全な人間社会を築いていこうとしていますから、イスラームが精神的健康とともに肉体的健康にも多大な関心を払うのは驚くにあたりません。イスラームは私たちが安心して食べることができる食べ物について詳しく教えています。

さてイスラームは豚肉の摂取を禁じていますが、それは肉体的健康の維持と関係があります。人間の精神的な状態を高める上で肉体的清潔さと精神の浄化は必要不可欠なものです。イスラームでは肉体的、精神的浄化を礼拝(SALAT)、アッラーの名の唱道(ZIKR)、それに決められた宗教的義務などを通じて行います。そしてこれらのことをきちんと行うには人間の純粋な心を育てていかなくてはなりませんが、そのためには私たちが毎日摂る飲食物に注意を払う必要があるのです。

純粋な心も悪い習慣も私たちの育ち方や教育、生活環境に左右されます。イスラームは純粋で清い心を育て、悪い習慣から自分自身を遠ざけるにはどうしたらいいかを教えてくれます。

2012年5月13日日曜日

Mrs. Nakao's Home Page


 癒しの体験を持っている人は、おおぜいいると思います。私も何度か、主からの癒しをいだだきましたが、今日はその証ではなくて、癒しに関して私が見たり聞いたり、教えられたり、考えたりしたことについて、話してみたいと思います。

 私たちの信じている神様は、全能の方ですから、癒す力をもっておられます。私たちを創られた神様は、私たちを癒すことができるのです。

 イエス様が、荒れ狂う海の波をお静めになったことが、聖書に書いてありますが、それは、イエス様が自然界の主であられることの証明でもあると思います。自然界、時間、空間、そして万物の主であられる神は、人間の体の主でもあられるのです。

 それに、神様は私たちを愛し、私たちのことを顧みてくださっているので、私たちを癒すことを、よしとしてくださるのだと思います。ただ、その神様の癒しは、ワンパターンではなくて、多様なのです。

 聖書の中でも、イエス様が人を癒された方法は、いろいろであることが解かります。旧約聖書にも、癒しの記事がありますがやはり一様ではありません。

 現代でも、牧師や癒しの賜物を持っている人に、祈ってもらって癒された、という人もありますし、自分で一所懸命祈って癒された、という人もあります。また、教会でみんなが心をあわせて祈り続けたので、多くの人の祈りが積まれて、癒されることもよくあります。

 癒しには、神様の聖手による直接的なものもあり、医者や、薬や、健康法といった、何らかの媒介による間接的な癒しもあると思います。イエス様は、最も力ある癒し主ですが、医学を肯定しておられます。「丈夫な人には医者は要らない、要るのは、病人である」といって、医者の必要を認めておられます。

 また、「ルカの福音書」と「使徒の働き」を書いたのは、ギリシャ人の医者ルカでした。「医者」という、科学的見地からものを見る立場にある人が、神の直接的な癒し、つまり奇跡を記していることは、聖書に書いてあることが、実際に起こったこと、まやかしや作り話でなく、まちがいなく事実であるということの、大きな証明であるといえると思います。

2012年5月11日金曜日

「おそれがない」ことが「明らかなとき」を判断するためのガイドライン


  大量破壊兵器等の開発等に用いられる「おそれがない」ことが「明らかなとき」には、許可申請は不要となります。
   このガイドラインは、この「明らかなとき」を判断するためのものです。輸出者や提供者は、このガイドラインに基づいて輸出や提供の厳正な社内審査を行うことが推奨されています。

 

 

 輸出者等は、「明らかなとき」を判断するに当たり、以下に掲げる事項(ただし、輸出する貨物等の用途並びに取引の条件及び態様からあてはまらない事項は除く。)を確認すること。

 

 輸出者等は、通常の商慣習の範囲で取引相手等から入手した文書その他の情報によって確認を行うこととし、入手した文書その他の情報のうち自らにとって都合の悪いものに対し目隠しをしないこと。

 

2012年5月10日木曜日

福音の史的展開 3


福音の史的展開 3

福音の史的展開 16

はじめに

 本章では「使徒後時代における福音の進展」を扱っていますが、前節でパウロ名書簡によって、エーゲ海地域の異邦人諸集会におけるパウロ以後の福音の進展と、その質の微妙な変化を見ました。それに続いて本節では、エーゲ海地域と深い関わりにあった帝都ローマの共同体の成立と、使徒以後の時期におけるローマ共同体とエーゲ海地域諸集会との関わりを見ることになります。

 この時期にはローマ帝国社会におけるキリスト者への迫害が目立つようになり、迫害の中でキリスト信仰を堅持するように励ます文書が書かれるようになります。ペトロ第一書簡やヘブライ書が典型です。両書ともローマとの関わりが深く、この時期に成立した使徒名書簡としての性格をもつ文書です。なお、ローマ帝国による迫害に対抗する代表的文書としては、ヨハネ黙示録があります。これは使徒名書簡ではありませんが、この時期における福音の進展を扱うさい、ローマ帝国との関連で欠かすことはできませんので、ここで取り扱います。

 

  T ローマにおけるキリスト者共同体

 

ローマのユダヤ人

 一世紀にはローマ帝国の首都ローマにも多くのユダヤ人が住んでいました。そのことは、ルカも使徒言行録の最後の章で伝えています。パウロが皇帝の裁判を受けるためにローマに護送されてきたとき、パウロはローマ在住のユダヤ人の代表者たちと接触し(二八・一七)、数日後には大勢のユダヤ人と会合をもって(二八・二三)、自分の信仰と立場を弁証しています。また、その少し前に書かれたローマの人たちへの手紙(ローマ書)においても、ローマの共同体がユダヤ人と異邦人の両方のグループがあることが証言されており(一四・一〜一五・一三)、最後の挨拶(一六章)でも多くのユダヤ人の名があげられています。福音が伝えられる前にユダヤ人の共同体があったことが、ローマのキリスト者共同体の成立に重要な前� ��となっているので、まずローマにおけるユダヤ人共同体の実態を見ておきましょう。

 地中海世界東部の諸都市には、捕囚以後の早い時期からディアスポラ・ユダヤ人の共同体があり、パレスチナに近いアンティオキアやアレクサンドリアなどの大都市には大きなユダヤ人共同体があったのに較べ、西部へのユダヤ人の移住は比較的遅く、ローマがユダヤ人共同体の存在が確認される最初の都市になります。

 文献上でユダヤ人とローマの接触が最初に確認されるのは、前二世紀半ばにマカベヤ家のユダがローマに使節を送りローマと同盟関係を結び、その同盟が彼の後継者ヨナタンとシモンによって遣わされた使節によって更新された時(マカバイT八・一七〜三二、一二・一〜四、一四・二四)が最初です。他にローマ側の文献では、ティベリウス帝時代のローマの歴史家マキシムスが前一三九年の出来事の記録として、ペレグリヌスというローマ市の役人がユダヤ人を(カルディア人や占星術師らと共に)ローマから追放したという記事を書いています。その追放の理由は、ユダヤ人が「ユピテル・サバツィウスの祭儀」というローマの風習に反する祭儀を持ち込んだからだとしています。この祭儀の名については様々な説明がされていま すが、「ヤハウェ・ツァバオス」(万軍の主)のローマ側の呼び方とする見方や、サバス(安息日)を特色とするユダヤ教の祭儀を指すローマ側の名と見る説が有力です。断片的な記事ながら、前二世紀の後半には、勃興期のローマとハスモン朝時代のユダヤ人の交流が始まり、ローマにユダヤ人が在住し始めていたことがうかがわれます。

 歴史的に確実なのは、ハスモン王朝の後継争いに乗じて介入したポンペイウスが前六三年にパレスチナとエルサレムを征服し、多くの戦争捕虜のユダヤ人を奴隷としてローマに強制移住させた出来事です。彼らの多くは間もなく解放され、テベレ川西岸地区に定住し、人口も増し加わっていきます。前五九年にエルサレム神殿に関わる事件でキケロが公開の場で彼の仲間を弁護する演説をしたとき、多くのユダヤ人が押し寄せたことことが伝えられています。この演説で、キケロはユダヤ人を「野蛮な迷信」に従う愚かな群衆として非難していますが、それはその後に続くローマ人のユダヤ人に対する反感をよく代弁しています。前一世紀には、ローマのユダヤ人が改宗者を得ようとして熱心に活動していることが、ローマ側の文書に� ��現るようになります。

 ヘロデ大王はカエサルと友好関係を結び、カエサルからユダヤ人に好意的な多くの布告を得ていました(ヨセフス『古代史』一四巻一八五以下参照)。この布告はコンスタンティヌス帝に至るまで実質的には保持されたようです。この布告により、ユダヤ人は三つの主要な特権を与えられました。第一は集会と礼拝の完全な自由、第二は兵役の免除、第三は独自の法廷をもつ権利です。ユダヤ教は帝国の「レリギオ・リキタ」(合法宗教)として公認され、帝国のユダヤ人はみな国家の宗教祭儀への参加を免除されました。

 しかし、ローマ社会には、ローマ古来の伝統に反するユダヤ人の宗教習慣には反発する気風が強く、ローマの政策も寛容と弾圧の間を揺れ動きます。初代の皇帝アウグストゥスはユダヤ人に対して比較的寛容であったようですが、次のティベリウス帝(在位一四〜三七年)は厳しく扱い、一九年に武器を取れるユダヤ人青年男性多数をサルディニアの戦場に送って、ユダヤ人共同体に打撃を与えたとされています。

 クラウディウス帝(在位四一〜五四年)がユダヤ人をローマから追放したことが伝えられています。スエトニウスはその著『皇帝伝』のクラウディウスの事跡を記した箇所で、「彼はクレストゥスの扇動によって絶えず騒乱を起こすユダヤ人をローマから追放した」と書いています。これは四九年のこととされています。ところが、同じくローマの歴史家ディオ・カッシウスは、クラウディウスはユダヤ人の集会を禁止しただけだと伝えています。この二つの記事は共に事実であって、おそらく騒乱を抑えるために集会を禁止したが、効果がなかったので追放に進んだという二段階の措置を指していると見られます。この追放令の結果コリントに移住してきていたアキラ・プリスキラ夫妻と、五〇年にコリントに到着したパウロが出会� ��ことになります(一八・二)。

  •   この二つの記事を調和させるために、追放は騒乱の当事者だけであり、使徒言行録一八・二の「すべてのユダヤ人をローマから退去させた」はルカの誇張だと見る説もありますが、二段階と見て、ルカの記事は事実を伝えているとするのが順当でしょう。

 クラウディウスの後を継いだネロ(在位五四〜六八年)はユダヤ人追放令を解き、ユダヤ人に対して比較的好意的な態度をとります。これは寵妃ポッピアがユダヤ教に帰依する「神を畏れる者」であったので(ヨセフス)、その影響と見られます。ユダヤ人歴史家のヨセフスは、この皇妃の庇護の下で活動し、「ユダヤ戦記」などを著述しています。

 ネロの時代に始まったユダヤ戦争は、七〇年のエルサレム陥落と神殿の崩壊を頂点として七三年に終結します。ネロの次のヴェスパシアヌス帝(在位六九〜七九年)は、ユダヤ戦争を指揮した将軍であり、戦後ユダヤ人に対して厳しい姿勢で臨みます。彼は「ユダヤ金庫」を創設、それまでエルサレム神殿に納めていた年二ドラクマの神殿税をユピテル・カピトリヌス神殿に納めるように命じます。このユダヤ人にとって屈辱的な税金は、ドミティアヌス帝によって極めて厳しく取り立てられるようになります。

  •      「ユダヤ金庫」については、『天旅』二〇一〇年2号34頁を参照してください。

 ローマのユダヤ人共同体の規模について最初に現れる証言は、前四年のヘロデ大王の死にさいしてパレスチナのユダヤ人がアウグストゥス帝に送った請願の使節団を、ローマのユダヤ人八〇〇〇人が出迎えて随行したというヨセフスの記事です(古代誌)。この頃すでにローマのユダヤ人在住者はかなりの規模になっていたことがうかがえます。一九年にティベリウスがサルディニアに送った青年男子は四〇〇〇人と記録されていますので、その家族や親族を含めますと、パウロの時代のローマのユダヤ人人口はほぼ二万人規模であったと推計されます。ローマ市の人口は約一〇〇万(あるいは八〇万人)と推定されていますので、ユダヤ人 はローマ人口の約二パーセントを占めていたことになります。この数はユダヤ戦争以後にさらに増えたと考えられます。ヨセフスの「ユダヤ戦記」によると、戦後に一〇万人のユダヤ人が安い価格で奴隷に売られたと報告されており、その中のかなりの部分がローマに来たと推定されるからです。

 ローマのユダヤ人は、アレクサンドリアのユダヤ人とは対照的に、一つの共同体を形成していませんでした。アレクサンドリアでは、五つの市区の中の二つをユダヤ人が占め、《エスナルケー》(民族の長)と呼ばれる一人の指導者の下に《ポリテウマ》と呼ばれる単一の自治共同体を形成していたのに対し、ローマではそのような単一の組織はなく、《シュナゴゲー》と呼ばれる複数のユダヤ人共同体がローマの各地に散在して活動していました。この場合の《シュナゴゲー》は礼拝のための会堂を指すのではなく、それぞれのユダヤ人共同体を指し、それぞれの地区や保護者の名前で呼ばれていました。その中でテベレ川西岸地区の《シュナゴゲー》はもっとも古く、アラム語を使う人たちであったからか、「ヘブライ人の《シュ� ��ゴゲー》」と呼ばれていました。現在では十一の《シュナゴゲー》の存在が確認されていますが、その中の五つはパウロのローマ到着以前に存在していたと見られています。

 それぞれの《シュナゴゲー》は「長老会議」《ゲルーシア》によって統制されていました。この「長老会議」は《シュナゴゲー》共同体の宗教的、法律的、財政的運営を司り、《ゲルーシアルク》と呼ばれるその議長が《シュナゴゲー》共同体を代表することになります。その下に、《グラマテウス》(律法の専門家)とか、礼拝を司会する《アルキシュナゴーゴス》(会堂司)とか、各種の基金を集める係とか、聖具を保管する係などがいたようです。

 ローマのユダヤ人共同体はその生活と集会でギリシア語を用いていました。これは当時のディアスポラ・ユダヤ人として自然なことですが、政府の公用語であったラテン語ではなく、当時広く地中海世界の庶民の共通語であったギリシア語を用いていたことは、ユダヤ人の間で生まれ育ったローマのキリスト者共同体がギリシア語を用いる共同体となり、パウロが母語のギリシア語で語りかけることができる共同体であり、広くエーゲ海地域の共同体と交流を深めることができる共同体となる基盤となります。

 ローマのユダヤ人は、その歴史が他のヘレニズム世界の大都市と較べて若いせいか、商業活動で資産をなした者や都市の有力者として活動した者は記録されておらず、カタコウム(地下墓地)の墓碑などからすると、奴隷をはじめ比較的貧しい階層に属するものが多かったようです。
 ローマのユダヤ人共同体の特色は、アレクサンドリアのユダヤ人共同体のように一つの組織をもった共同体を形成せず、多くの《シュナゴゲー》共同体が個別に活動していたことです。この事実は、ローマに形成されたキリスト者共同体の在り方に大きく影響します。

 

ローマにおけるキリスト者共同体の形成

 ローマにいつ誰によって福音が伝えられたのかは確認できません。異邦人への使徒パウロは、帝国の首都ローマに福音をもたらすことを熱烈に志していましたが果たすことはできず(ローマ一・九〜一三)、五六年にコリントからローマの人たちに手紙(ローマ書)を書いたときには、すでにローマには小規模ながらキリスト者の共同体が存在していました。ローマ書は、この時期(五〇年代半ば)におけるローマのキリスト者共同体に関するもっとも重要な証言であり資料です。

 先に見たように、クラウディウス帝は四九年に「クレストゥスの扇動によって絶えず騒乱を起こすユダヤ人をローマから追放した」とローマの歴史家によって記録されていますが、この「クレストゥス」は明らかに《クリストス》の不正確な表記ですから、四九年にはローマのユダヤ人の間にキリストの福音が伝えられ、キリスト信仰をめぐってユダヤ人の間に論争と騒乱が起こっていたことが確認できます。そうすると、三〇年のイエスの十字架・復活の出来事の後二〇年足らずの間に、少なくともローマのユダヤ人にはキリストの福音が伝えられ、信じる者の活動が始まっていたことが分かります。

 このことは、ディアスポラ・ユダヤ人と聖都エルサレムとの密接な交流からすれば、当然のこととして理解できます。とくに、エルサレムには「リベルテン(解放された者)の会堂」があり(六・九)、ローマから来住している解放された奴隷のユダヤ人が多数いたのですから、エルサレムで起こったイエスの十字架と復活の出来事と、それを告知する使徒たちの働きを体験した者が、イエスをメシア・キリストとする信仰をローマのユダヤ人共同体に伝えたことは当然です。

  •  最初期にイエスをメシア・キリストとする信仰をローマに伝えたユダヤ人の名は伝えられていませんが、ローマのユダヤ人共同体《シュナゴゲー》の成員でエルサレムに巡礼した人たちがその信仰をローマにもたらしたことも推察されます。エルサレムまたはパレスチナの無名の信者たちによってローマに伝えられた可能性もあります。ローマ書一六章七節のアンドロニコとユニア(おそらく夫妻)も、そのようなユダヤ人の伝道者であった可能性があります。この二人は、パウロより先にキリストを信じる者となっており、「使徒たちの中で目立った」働きをし、パウロと一緒に投獄されたこともある先輩使徒として紹介されています。
     
         ここは新共同訳を含め多くの訳で「アンドロニコとユニアス」と訳され、二人の男性とされていますが、原文では対格の「ユニアン」は、ユニアスという男性ではなくユニアという女性であることが、P・ランペの詳しい研究によって確認されています。この点について詳しくは、左記の文献を参照してください。
         K.P.Donfried, edt. " THE ROMANS DEBATE "  p.223

 ローマでキリスト信仰の証のために活動したユダヤ人の中でもっとも目立つのは、アキラ・プリスキラ夫妻です。この夫妻の名が最初に登場するのは、四九年のクラウディウス帝によるローマからのユダヤ人追放令によってローマからコリントに来て、そこでパウロに会ったときです(一八・二)。夫妻はパウロと会ってすぐに協力して福音を伝える働きをしているのですから、ローマですでにキリスト者であったことは明らかです。そうするとキリストをめぐるローマのユダヤ人の間での論争と騒乱の当事者であったことになります。アキラとプリスキラが証言するキリストをめぐって、ユダヤ人からの激しい反対があり、その論争が騒乱にまで発展したのでしょう。おそらく、ローマ総督によって十字架刑にされた イエスがイスラエルに約束されたメシアであると信じることに対する反対だけでなく、イエスを信じるユダヤ人たちのモーセ律法に対する軽視が論争の的となったのではないかと推察されます。アキラ・プリスキラ夫妻は、すぐ後にパウロと意気投合して活動している事実から、パウロ的な律法から自由なキリスト信仰を主張したと見られます。

 アキラは「ポントス州出身のユダヤ人」と紹介されています(一八・二)。ポントス州に福音が伝えられるのはずっと後のことですから、アキラはローマに出てきて福音に接し、信仰に入ったものと見られます。プリスキラ(短縮形のプリスカと呼ばれることも多い)との結婚もおそらくローマに来てからのことでしょう。プリスキラという名は奴隷にはなく、そこそこの富裕な家柄の女性であったと推察され、夫妻の名があげられるとき、「プリスキラとアキラ」と、テント職人のアキラよりも先になるのはそのためであると見る人もいます。もっともこの順序はプリスキラの方が福音活動において主導的であったからだとする説が有力です。

  •      アキラ・プリスキラ夫妻がかなりの規模のテント製造業者であり、パウロを世話したり、集会をすることができる家をもつことができる富裕層の夫妻であったとする説もありますが(ヘンゲルも)、これは確認できません。むしろ、多くの記事が普通のテント職人であることを示唆しています。

 パウロがコリントに一年半滞在した後、エルサレムに向かって出発したとき、アキラ・プリスキラ夫妻も同行してエフェソまで来ます。パウロがそこからさらに船を乗り継いでエルサレムに向かったとき、夫妻はエフェソに残り、このアジア州の州都エフェソで福音活動を進めます(一八・一八〜二八)。パウロがエルサレムでの使命(使徒たちとの会議?)を終えて、内陸の高地地方を通ってエフェソに戻ってきて活動を始� �たとき、アキラ・プリスキラ夫妻はすでに自分の家で集会をして活動しています(コリントT一六・一九)。パウロはローマ書(一六・四)の挨拶で、この二人を「わたしの命のために首を差し出してくれた」人たちと呼んでいます。これはおそらくエフェソでの騒乱でパウロが危機に陥ったときに、この二人が自分の命の危険を顧みずにパウロを助けたことを指していると見られます。

 クラウディウスが亡くなってネロが後を継いだとき(五四年)、ローマからのユダヤ人追放令は廃止され、アキラ・プリスキラ夫妻はローマに戻ります。パウロが五六年にローマ書を書き送ったとき、夫妻はローマにいます(ローマ一六・三〜五)。この五年に及ぶユダヤ人追放令はローマのキリスト者共同体に大きな変化をもたらします。

 四九年の追放令までは、ローマのキリスト者はおもに各ユダヤ人共同体《シュナゴゲー》の中のユダヤ人信者と、《シュナゴゲー》の礼拝に参加していた異邦人の「神を敬う者」であり、《シュナゴゲー》の中にいました。ユダヤ人がローマから追放されていなくなった後では、異邦人信者は《シュナゴゲー》とは別に集会を形成せざるをえなくなります。しかし、それまで各《シュナゴゲー》にいたキリスト者は、《シュナゴゲー》から離れても別々の共同体を形成し、一つの組織体とはならなかったようです。ここで、ローマのユダヤ人共同体が単一の組織体ではなく、複数の《シュナゴゲー》共同体に別れていたことが、ローマのキリスト者共同体の在り方に影響を及ぼしていることが見られます。

 「レリギオ・リキタ」(合法宗教)として様々な特権を認められているユダヤ教の庇(ひさし)を失った異邦人信者の共同体は、東方の宗教や習慣に対する周囲のローマ市民の反感を避けて、秘かに小さな集会をして信仰を維持したのではないかと想像されます。追放令が廃止されてユダヤ人信者がローマに戻ってきたとき、すでに形成されている異邦人信者の共同体との関係が問題になります。ローマに戻ってきたユダヤ人は当然元の共同体《シュナゴゲー》を形成したことでしょう。そのさい、別に形成されていた異邦人信者の共同体とどういう形で関わったのかが問題となります。パウロはこの時期のローマの人たちに手紙を書いてこの問題に触れていますので、この問題は次項(U)で扱うことにします。

 ネロ(在位五四〜六八年)の時代に、ローマのキリスト者共同体には衝撃的な事件が起こります。ネロはローマの大火の責任を、周囲のローマ市民から反感をもって見られていたキリスト教徒に負わせ、多数の信者を処刑します(六四年)。これは、それまでユダヤ教徒の一部として扱われていたキリスト教徒が、当局によってユダヤ教徒とは別の教徒として扱われるようになったことを意味します。この区別は、ユダヤ教に傾倒していた皇妃ポッピアの影響によると見られます。このネロの時代の後半に、パウロもペトロもローマで殉教します。ネロの時代は、ユダヤ教徒には有利な時代でしたが、ローマのキリスト者共同体には過酷な時代となります。

 

  U ローマの共同体とローマ書

 

「ローマ書を最初に受け取った人びと」

 パウロは、二年余りのエフェソでの福音活動を終え、マケドニア州とアカイア州の諸集会を訪れて献金を集め、それを届けるためにエルサレムに行こうとして、コリントで船便を待っています(五五年から五六年にかけての冬、ネロ時代の初期)。そのエルサレムでの使命を果たした後、宿願のローマ訪問を果たし、ローマの人びとに送られてイスパニア(スペイン)にまで福音を携えて行こうとして、ローマの人びとあてに手紙を書きます(ローマ一五・二二〜二九)。それがローマ書です。ローマ書はパウロが告知したキリストの福音をもっとも包括的に提示する文書として、新約聖書の中でも最も重要な文書の一つであり、その内容の研究は山をなしていますが、同時にその時点でのローマのキリスト者共同体の様子を証言する� ��料でもあります。ここでは、ローマ書によってそれを受け取ったローマの共同体の様子を見てみたいと思います。

  •    ローマ書が送られてきた時のローマの共同体の様子については、水垣渉氏の『ローマ書を最初に受け取った人びと』という、ユニークで優れた論稿がありますので(『天旅』二〇〇七年3号所収)、それをそのまま紹介したいのですが、紙数の都合でできません。それで、その論文から教えられた内容の要点を紹介して、この時期のローマの共同体の実情を描くことにします。

  最初の2世紀間、ローマのキリスト者は市内の別々の場所に分かれて集会をもっており、全員が集まる中央の集会所はありませんでした。それで、パウロはローマの人たちに手紙を書くとき、宛先として(コリント書簡TとUのように)「ローマにある神の《エクレーシア》へ」と書くことはできませんでした。パウロは「神に愛され、召されて� ��なる者となったローマの人たち一同へ」と書いています(ローマ一・七)。《エクレーシア》という語は、プリスカとアキラの家に集まる集会を指すときだけに出てきます(ローマ一六・五)。本体部分(一〜一五章)には出てきません。

 パウロは書簡の最後(一六・三〜一六)で、ローマにいる知人たちに挨拶を送っています。そこに出てくる人名とグループから、当時のローマのキリスト者共同体の実態を垣間見ることができます。ここにあげられている28人の個人の中、アリストブロとナルキソはキリスト者ではないので、26人がキリスト者であり、その中の24人の名前が挙げられています。その26人のキリスト者の中の9人は女性で、男性は17人です(七節のユニアを女性と数えて)。各人に添えられている賛辞からすると、女性の方に福音のために協力し苦労した人が多いようです。

 名前の由来や頻度から自由人か奴隷出身者かがある程度判明します。研究者によると、名前のデータがとれる13人中、三分の二以上が奴隷出身、すなわち解放奴隷であり、ローマのキリスト者は東方出身者が多く、たいていローマ市民ではない属州民であったとされます。

 一六章にはローマで活動していたいくつかの集会やグループがあげられています。1アキラとプリスカの家の集会(五節)、2アリストブロ家の人びと(一〇節)、3ナルキソ家の信者たち(一一節)、4アシンクリトらのグループ(一四節)、5フィロロゴらのグループ(一五節)の五つがあげられていますが、他の14人がすべて同一のグループとは考えにくいので、少なくと他に二つのグループがあり、後のパウロ自身のグループ(二八・三〇〜三一)を入れると八つのグループがあったことになります。

 各グループは名前をあげられている人の他に数人または十数人いたとすると、八グループの人数は30人から140人の間となりますが、ローマのキリスト者の総数は、コリント集会とほぼ同じ程度の50人前後と推定してよいのではないかと考えられます。

 このようなグループはどこで集会をしたのでしょうか。それはおもに「インスラ」の借家で行われていたと見られます。「インスラ」(島という意味の語)というのは、数階建ての集合住宅で、各家は街路に通じる階段から直接入れました。現代の公団住宅のようなものですが、四階まではセメントですが五階以上は木で造られていました。貴族や富裕階層は一戸建ての邸宅(ドムス)に住んでいましたが、大多数の民衆は一部屋または数部屋のインスラの住居に住みました。狭い市域に当時で(推定で)八〇万人ほどが住んでいたので、人口密度は平均的な日本の現代都市と較べると四倍以上になり、庶民は採光も悪く下水設備もない非衛生な住居にひしめくように住んでいたことになります。

 コリントでは、パウロ一行とコリントの共同体全体を世話することができる邸宅(ドムス)を持つガイオの家に集まっていましたが(ローマ一六・二三)、ローマでは小さなグループごとにこのようなインスラの部屋に集まっていたと推察されます。使徒パウロから送られてきた手紙(ローマ書)は、このような部屋に集まる小さい集会に次々に回されて朗読され、聴く者はアーメンと応えてパウロの告知する福音の言葉によって神を賛美したことでしょう。

 ローマ書はけっして冷徹な神学論議ではなく、パウロがその生涯をかけて告知してきた福音の全身全霊をかけた告白であり、それにふさわしい高揚した文体で書かれています。パウロの高揚した魂から迸り出る言葉の口述筆記で書かれたこの手紙は、それが朗読されるのを聴く者にも、魂の高揚を呼び起こします。現代のわれわれはローマ書のこのような性格を理解し、「パウロの肉声による福音書」(水垣)として受け取ることが重要です。

  •     以上は水垣先生の論稿『ローマ書を最初に受け取った人びと』の不十分な要約ですが、この論稿の最後の「どのように読まれたか」は、ローマ書という文書の性格を理解する上できわめて重要な示唆であり、ローマ書の解釈に変革を迫るものと考えられます。


「強い者」と「弱い者」

 パウロはローマ書において、他の手紙と同じように、まずはじめに(一章から一一章で)福音の真理を提示して、その後で福音にふさわしく歩むように実際的な勧告を行っています。ローマ書では一二章から一五章でその勧告がなされていますが、前半の一二章と一三章でキリスト者としての生き方の一般的な勧告をした後、一四章からローマの共同体に特有の問題を取り上げています。その特有の問題とは「強い者」と「弱い者」の対立であり、それによってローマの共同体の中に生じている裂け目の問題です。パウロはこの箇所(一四・一〜一五・一三)で、なんとかしてこの対立を克服して、ローマの共同体が主にあって裂け目のない交わりを形成するように、心を砕き、言葉を尽くして勧告しています。

 ローマの共同体にこのような対立があることを、パウロはおそらくアキラ・プリスキラ夫妻のようなローマ在住の同志からの手紙などで聞いていたのでしょう。自分がローマに行く前に、このような対立が克服されて、温かい交わりの共同体に受け入れられることを願って、このような勧告を書いたと考えられます。その対立は、「確信《ピスティス》の弱い者」(一四・一)と「強い者」(一五・一)の対立です。勧告の内容を見ると、「弱い者」というのは、野菜だけを食べ肉を食べないとか、特定の日に特定の宗教行事をしなければならないと考えている人を指し、「強い人」というのは、何を食べてもよいと考え、日にこだわらないで生活している人を指しています。

2012年5月8日火曜日

BBSログ 2007/12/28 (Fri) 10:22:17-007/12/03


面白いBBS - 寺田祐一牧師

2007/12/28 (Fri) 09:45:16

 仕事も今日までという方も多いのでしょうか。
 近くにある大きな卸売市場も今日までだそうです。
 勿論、それどころではない方もいらっしゃるでしょう(私もそうですが)。
 しかしもう今年も終わりですね。

 このBBSも、今年の2月末から始まったのですから、もう9ヶ月になりました。
 最近は、書き込んでくださる方々が限られて少ないのですが、ヒット数は毎日7、80件はあるようです。
 確か、19730回ぐらいまで行ったのですが、fc2サーバーの障害で、16950回の時点まで戻ってしまいました(その間の書き込みは失われたそうです)。今の時点で、それからでもすでに17780回となっていますから、すでに830回ほどヒットされています。
 加算すると、20560回ぐらいになっていますが(f c2サーバーからカウンター訂正ソフトが届いたら変えます)、よくご覧いただき、投稿していただいたと感謝しています。
 元々教会のサイトですから、そんなにご覧いただけるとは考えてはいませんでしたので、むしろ驚いていたのですが、一時、色々とご協力くださる方々によってかなり賑わったのですが、今は落ち着いて、始める前に私がイメージしていたようなかたちになっています。
 様々なご批判をも含めて(大変勉強にもなりました)、日本のキリスト教会サイトとしては本当によくご覧いただいているほうしょうか。その分責任も大きい‥‥  。
 今も試行錯誤を重ねながらですが、始めた以上、お応えしていこうとがんばっているところです。

 始める前に、これだけはなんとか守ろうと決めていたこ� ��は、見てくださる人がいようといまいと、とにかく続けて行くこと、そのためには毎日何かを書き続けるということでした。
 勿論何でも書けばいいというものではなく、中身が問題しょうが、それでも書き続けること、こうした働きには重要だと考えていたからです。
 しかし、東江さんなどにも助けられてですが、毎日書くというのは、覚悟はしていましたが本当に大変ですね。自分の正体、本性がさらけ出されてしまいます。いつも読みかして恥ずかしい思いをしています。
 ただ、初めから正直に、なるべく本音で書いていこうと考えていましたので、その点で攻撃を受けることもあるのですが、それはそれでいいかなと思っています。
 今日も、何を書こうかと考えながら、ついこんなことを書いてしまいました 。

 しかし、いつも忘れてはいないのは、何とかして神様の恵みをお伝えしたいと言うことです。
 今日の聖書箇所は、詩篇42篇でしたが、有名な詩篇です。

「42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」

 現代に限らず、いつの時代も、人は生きている限り、何かに飢え渇いているようです。美しくも切実な表現ですが、鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、でしょうか。
 この、霊の渇きをうるおしてくださるおかたこそ、イエス様ですが、このサイトを通して(ひとつの方法に過ぎませんが)、お伝え出来ればということです。
 クリスチャンのかたは、ぜひあかしやご意見などをお寄せください。
 今後も何とかがんばって続けていくつもりですので、応援、よろしくお願いします。

子ども会準備 - 東江公人

2007/12/27 (Thu) 17:33:02

いつもの子ども会メンバー2名の女の子 ナギサ と メイ。

今は冬休みに入ったので毎日来るらしい。
今日も来て、土曜日の準備を彼らなりにしていった。
放っておくと子ども会の方向がおかしくなりそうなので明日は何をして欲しいかこちらが準備しておく必要が出てきた。

『年末はゆっくりしよう』と勝手に考えていたが、どうもそうはさせてもらえそうにもない。

明日は説教の準備と土曜子ども会の準備をするこども達のための準備をすることになりそうだ。

師走とはよく言ったものだ。もちろんこういう忙しさはうれしいのだけれど…

主の熱心 - 寺田祐一牧師

2007/12/27 (Thu) 19:05:24

 子どもは、勿論面白いから来るのですが、単に楽しかったり、ものがもらえたりするから来るのでもないようです。それなら、日本の教会だって子どもで溢れているでしょう。
 また、そんな風に集まってみても、ご指摘のとおり、そこに確かなポリシーがなければ、やがて胡散霧消(うさんむしょう)してしまうでしょう。
 きっと、子どもたちを惹きつける何かが、名護の教会には、いや、東江さんご夫妻のお働きにはあるのでしょうね。それは、ひとり一人をきちんと見定め、適切に対応して行くというきめの細かさ、そして熱い思い、何よりも、深い愛を子どもたちが感じているからなのでしょう。
 ご夫妻の手作りなのですね。
 やがてその熱心さが、神様からのものであることを知り、その熱心さ� �ご愛が、子どもたちへも伝わって行くことでしょう。本当によい働きです。

 そんな賜物を、神様が黙っておくはずはありませんから、これからますます忙しくなりそうですね!
 おからだを大切に‥‥ 

 教えられました。
 私も頑張って見ようと思います。

もう来年‥‥  - マルタ

2007/12/27 (Thu) 14:09:04

 寺田牧師先生、東江牧師先生、こんにちは。
 マルタです。
心待ちにしていたクリスマスも過ぎて、今年も残り数日になりました。
 私、マルタは1年が過ぎて行くのが毎年、早いなと感じています。
 『あれっ!まだ、新年のご挨拶をしたばかりじゃ…。』と言う感じです。
 光陰矢の如し…。(言葉の使い方あっているでしょうか?。)今年も、皆、色々な所を通って来たと思いますが、私、マルタも色々な体験・経験をし、思いを持ちました。
 ここ数年、様々な思いが嵐や大波の様に押し寄せてきて、飛ばされたり、流されたりですが、(勝手にそうしているだけかも)そこから色々気付かされ、神様からも沢山教えて頂きました。
 マルタ、来年も(は)立っているべき所に立ちたいと願� �ます。
 今年、途中からこのBBSの部屋に入れさせて頂きましたが、ここでもまた、色々な考え方や言葉を教わりました。マルタ、ただびっくり!するばかりです。寺田牧師先生、東江牧師先生の文中の一言一言に心に響く、はっ!とさせられるものが沢山ありました。
 ずっと以前の出来事の様子や、教会学校の様子も文字が映像となって見えて来る書き方に、マルタもこんな風に書けたらと強く思わされた次第です。それには、もっと見聞を広めないと…ですね?。
 それ以前に神様に私の全てが向いていなければ…かな?。
 来年も寺田牧師先生、東江牧師先生もお忙しい日々が続くと思いますが、神様が何時も共にいて下さり、力づけて下さいますようにとお祈りしております。
 来年もどうぞ宜しくお願い致し� �す。

立派な文章  - 寺田祐一牧師

2007/12/27 (Thu) 18:49:26

 マルタさんの文章と知識はとても立派です。
 その書き込みにはいつも励まされております。
 勿論、勉強や知識、見聞には広げすぎることはありませんから、ぜひかなってください!
 きっと、ますます文章にも磨きがかかることでしょう・
 来年が楽しみです!

 東江さんの文章はとても立派ですが、私はまだまだで、このサイトで今一生懸命練習中といったところです。
 おかしなところがあったら、どんどんご指摘ください。
 よろしくお願いします。

明日を守りイエス様 - Grace

2007/12/27 (Thu) 08:22:11

 明日を守りイエス様。
 素敵ですね。
 先生方、いつもありがとうございます。
 なんだか、私への返信をしてくださり涙が出るほど嬉しく思います。
 クリスマスが良い思い出で子供たちに残ることはいいことですね。

 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

 これは、私が毛嫌いした言葉でした。
 救われる前、父に、私は救われている。と激怒したことを今涙を流しながら思い出します。
 私はかえられました。
 イエス様を信じることはすばらしいですね。

時にかなって美しい - 寺田祐一牧師

2007/12/27 (Thu) 18:44:16

時にかなって美しい NEW / 寺田祐一牧師 引用
 ええ、喜んでくださるなら、たくさん返信しましょう!

 聖書のみことばって、とても不思議で、私たちの勝手や思い通りにはなりません。
 ある時には大きな慰めや励ましになりますが、強い反発や怒りすら覚えさせることもあります。
 しかしそれは、単に私たちの受け止め方であって、聖書のみことばの価値とは違うようです。
 ダイヤモンドは、誰がどう鑑定しようと、誰が持とうと、そのダイヤモンドの価値はなんの関係もないのと同じです。
 でもそれは普遍的ですから、いつかは必ず、その驚くべき価値に気付かされる時があるのです。

 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

 このみことばは、どれほど多くの人々に攻撃され、またその通りの みわざを現して来たことでしょうか。
 本物の価値が分かるためには、随分と時間がかかるものです。
 その間、よくできた偽物にごまかされることが多くあるでしょう。
 私もずいぶん惑わされたものですが(今も油断するとすぐにそうなります。危ない危ない)、しかし、その度にみことばの深さと確かさに触れる機会としていただいています。
  
 まさしく「神のなさることは、時にかなって美しい」ことに気付かされるのです。
 よかったですね!

振り返りつつ前を見る - 寺田祐一牧師

2007/12/27 (Thu) 08:13:11

 今年はまだ終わっていませんが、クリスマスの余韻もあまり残っていないような、お正月が待ち遠しいといったこともなく、ただ毎日があわただしく過ぎて行くといった感じです(私もそうですが、むしろ世相が‥‥ )。
 来年というより、もう来週どうするかが気になります。本当に忙しい時代なのだと思います。
 ぐずぐずしていなくても、簡単に取り残されてしまいます。
 その流れに乗っていくかどうかは、自分の人生ですから、人にとやかく言われる筋合いはなく、自分で選択すればよいのですが、その選択基準をどこに置くのかは、もう一度確認しておくことは無駄ではないかも知れません。365日、切れ目や節目、一段落を許さず先へ先へと駆り立てられる現代、暮れの何日か、新年の初めぐら� ��は、少し立ち止まって思いを巡らせて見るのもいいでしょう。貧乏暇なしや自転車操業とはまったく質の違う忙しさです。
 その中で生きているので分かりにくいのですが、分かってはいても逃れるのは難しいのです。
 まるでネズミの大行進で、よく見える目は、空気が読めない結果にもなりそうです。
 勿論、クリスチャンであろうと例外ではありませんが、教会は例外であるべきかも知れません。

 旧約聖書によると、ノアは40年もかけて巨大な船を造りました。
 箱船と言われているものです。社会的に考えるなら、まったく無駄なものでした。
 結局、大洪水が訪れ、この箱船に乗ったノアの家族と地上の生き物は助かるのですが、その箱船を造り続けている40年間は、人々の嘲笑の的であり、空気 の読めない愚か者家族そのものでした。
 その間、ノアはどうだったのか分かりませんが、少なくとも家族は、「お父さん、人がなんて言っているか知っていますか。もう止めましょうよ」と、色々悩んだのではと推測します。本当に難しいところです。
 2000年の間、ご存じのように、教会は様々な状況に置かれて来ました。時代をリードし、人々が、こぞってつめかけるということばかりではなかったわけです。
 現在でも、教会が焼き払われたり、壊されたりする地域もあります。
 日本でも、直接そのような攻撃はありませんが(キリシタン禁制時代は具体的でした)、目に見えない圧力は相当なもので、教会がなかなか繁栄しない姿を見て、こうあるべき、あああるべきという攻撃もまた、教会内外からも後� �絶ちません。
 そんな中、どうして行くべきか、悩まないリーダーはいません。うまく出来る牧師も、なかなかうまくいかない牧師もいるでしょう(リーダーは必ずしも牧師だけとは限りませんが)。
 しかし、それにもかかわらず、いつの時代、地域においても、流れとは関係なく教会はあったのです(惑わされたことも度々でしたが)。
 それをどう守り表現していくのか、ゆっくり振りかえて見る時は必要ですね。
 東江さんの教会学校の話題は、その意味においてもタイムリーです。
 年末年始は、いつの時代においても、そうした機会としてはふさわしいと思うのですが、いかがでしょうか。
 少なくとも聖書はそう言っているのですが、イエス様が私に、いや教会に願っておられることはなんだろうかと ‥‥  。

 教会も、勿論時代の流れからは自由ではありません。
 しかし、それに支配されているわけではありません。いや、されたはいけない‥‥ 
 むしろ、滔々と流れる人の歴史の傍らにあって、それに惑わされず、じっと見続けて行く役割があります。カトリックとは(ローマ・カトリックではない)、パーマネント、まさしくそうした普遍を意味する名称だったのです。
 少なくとも、時代に適応出来ない、空気がよく読めない私にとっては、唯一身を避けることの出来る場所あり、そこで生きて行くことの出来るところです。でなければ、どこへ行けばよいのでしょう。
 それを子どもたちに伝へ、悩んでいる方々の避けどころであることは確かです。

  41:1 幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。

 今朝の詩篇の1節でした。

キャロリング - エキストラ

2007/12/24 (Mon) 11:44:54

教会ではクリスマス本番真っ只中・・・ですね!

キャロリング・・・以前、自分も参加した事があります。冬の野外ライヴは寒いですが、観客が足を止めて人だかりが出来ると、結構いい気分になって盛り上がりますよね。
独りで楽器を抱えての路上ライヴの勇気はありませんが、仲間と街角で・・・これは予想以上に熱くなりました。

柄にもなく一瞬懐かしい想いに耽ってしまった・・・

Re: キャロリング - 寺田祐一牧師

2007/12/25 (Tue) 16:44:47

 昨日、教会のクリスマスのプログラムはすべて終えて、今日は少し静かなクリスマスを過ごしています。
 今、今年最後の、絵の時間が終わったところです。

 エキストラさんも、ただのエキストラではなく、教会へいらしていたんですね。
 昨日はどちらかにいらっしゃいましたか。
 またぜひ、キャロリングをなさってみてください。
 
 よいクリスマスを‥‥ 。

Re: キャロリング - エキストラ

2007/12/26 (Wed) 10:55:40

懐かしいと言えば、学生時代にあまり意味も考えずに仲間に誘われて、クリスマスに教会へ。
ただし、楽器を抱えてあちこちキャロリング・・・学生だからギャラも掛からない、美味しい手作りケーキを頂戴して結構満足してました。

未だに、放浪の音鳴らしをしてるのは、そこが起源なのかな・・・。

所で、先日遂にそちらの友人に「エキストラ」がバレてしまい・・・久しぶりの電話で「エキストラさんのお宅でしょうか?」・・・一瞬沈黙!・・・続いて爆笑!

素性がバレルと何だか照れくさい・・・書き込み辛いと思う折も折に、年明けから関西方面での仕事が決まり、長期遠征する事になりました。
冷やかし半分に首を突っ込み、お邪魔しました。
・・・というか、牧師さんたちを冷やかし� ��・・・天罰降らないか・・・不安を抱きつつ・・・旅支度。

牧師さん、皆さん、よい年をお迎えください!

おあいこ様 - 寺田祐一牧師

2007/12/27 (Thu) 07:54:04

 ああ、さすらいのイカス寅さんですね。
 
 これほど背景と個性がむんむんしていれば、ご存じの方なら分からないほうがおかしいでしょう。
 勿論、私はまったく分かりませんが、この年になってはもう無理ですが、私の理想とする生き方ですよ。
 多分、本当は宣教師のほうが向いているのかも知れません。

 ところで、エキストラさんがなさるという演奏は何ですか?
 くち三味線?(ああ、大変失礼しました)

 私もまた十分楽しませていただきましたので、おあいこ様ですよ。

 よいお年を。

日本の伝道 - 寺田祐一牧師

2007/12/26 (Wed) 08:19:43

 お早うございます。

 今日もあたり一面の霜が降りて、大分寒い冬の朝となりました。
 冬ですね!

 東江さんの教会学校のお話は大変興味深いものです。
 今、日本の教会で、この教会学校に困っていない教会はないでしょう。
 何でも例外はあるでしょうが、残念ながら、教会学校が縮小されたり閉鎖されてしうところも多いのです。
 そんな中、東江さんの働きは貴重です。
 私たちの教会も、それなりに頑張っていると思うのですが、なかなか思うようには子どもたちも来てはくれません。
 勿論、理由も様々でしょうが、東江さんの言うとおり、ちらしや看板などでは、子どもたちは来ません。
 仮に来たとしても、親からすぐにストップがかかってしまい(今の時代、この気持 ちも分からないではありません)、子どもひとりでは来られません。親が連れてくれば別ですが、日曜日にわざわざそうする親はいないようです。
 また、新しい子どもが来ても、別に意地悪しているわけでもないのに、最初のうちはどうしてもその中に入りにくいものです。勿論大人が色々と配慮をするのですが、その大人、或いは先生がいなくなると難しいのです。
クリスチャン・ホームの子どもたちでさえ馴染むのには相当時間がかかるものです。
 新しい子どもが来て、教会に定着するには、そこにどうしても親しく出来る友だちが不可欠です。
 つまり、今来ている子どもたちが友だちを連れてきて、すぐに一緒に教会で遊べないと難しいようです。
 これは多分大人も同じで、日本における伝道の基本なのだ と、私は思っています。
 大人にしろ子どもにしろ、キリスト教用語で言えば、「個人伝道」といったところでしょう。
  
 子どもの場合、もう一つの点は、すでにクリスチャンである親に連れられて来るのが一番多いのですが、親がなかなか子どもを連れて来られない、信仰を伝えられないという点もあるようです。
 日本では、切支丹禁制が解かれてすでに150年にもなるのですが、未だに一代目のクリスチャンの方々がほとんどなのです。せっかくの信仰が、残念ながら継承されず、ご自分一代で終わってしまうのですね。
 日本のクリスチャンはだらしがないと、ひと言で片付けてしまうことは簡単ですが、これにも様々な背景があって、一概には言えず、時間のかかることだと思っています。
 ただ、� ��書のみことば「主イエスを信じなさい。そうすればあなたとあなたの家族が救われます」とあるとおり、信仰は家族単位のものであり、親が子どもに伝えて行くべきものですから、如何に難しくても、これを忘れないでいることが、日本では大事です。
 つい、難しさから「子どもには子どもの考え、人生があるのだから」と、いいわけをしてしまうことも多いからです。現実を見て、無理は出来ないと、今は私も分かりますが、こころの痛みをなくしてはいけません。

 また、クリスチャン・ホームで、子どもたちを教会へ連れて来るとき、親通しの関係が非常に大事になって来ます。親通しの関係が悪いと、子ども通しの関係も、子どもたちの意志に関係なく悪くなります。日本の教会は人数が少ないので、ほんのちょっと� �たことが、実に大きな影響力を持ってしまいます。
 「互いに愛し合いなさい」というヨハネのことばは、実に意味深いものだと、足りない牧師としては、しみじみ思わされているところです。

 基本的に、日本では、子どもが子どもを、そして大人も自分の知り合いを、「個人伝道」によって連れて来る以外に方法はないと考えています。
 大きな、派手な、特別な方法、集会は、否定するのではありませんが、残念ながら効果はなかったのです。

 東江さんのおっしゃる通りだと思います。
 来年は、もう一度腰を据えて、この問題に取り組み、祈って行きたいと考えています。
 そのためにこそ、今私は、いいえ、日本の教会、そして教会学校もあるのでしょう。

Re: 日本の伝道 - 東江公人

2007/12/26 (Wed) 14:12:31

こども達は時間の観念がまだ確立していないので時間通りには来ません。子ども会に来て良かった場合、そのことが他のこどもに伝えられて後で来る場合も多くあります。
 と言うことで1回の集会で、完結というやり方は我が教会では、まだできそうにもありません。
基本は、聖書の紙芝居を聞くとお菓子のプレゼントがもらえる。という基本的なルールを守れば、ある程度は大目に見ることにしています。

 今回のゲームは間違い探しゲームをしました。2枚の絵の間違いを探すゲームです。かなり難しく作りましたが、人に教えてもらわないでひとりでやると言うルールにしました。もちろんやめれば賞品はありません。そのため賞品はたいしたものではない物にしています。
ゲームは、大変な方が達成感 があって面白いのです。
今のところ断念した子はいません。むろん小さすぎてできない子はやらせませんが…小学1年の子もやり遂げました。子どもの能力は侮れません。
賞品はゼリー1個とたいしたものではありません。

 子ども会の基本は、自分の意志で選ぶと言うことを強調しています。子どもであっても自分で選ぶと言うことはとても大切なことだと思っているからです。昨日、『紙芝居は聞きたくないから帰る』という子がいました。
 その男の子が今日またやって来て紙芝居を聞いて帰ってゆきました。もちろんプレゼントを獲得して…

 ちょっと大げさに言えば教会の訓練。基本的な決めごとは子どもだからといい加減にしないでおこうと思っています。

心映え - 寺田祐一牧師

2007/12/26 (Wed) 22:20:16

 きちんとした観察とポリシー、実に見上げた心映えです!
 本当に名護ではがんばってこられたのですね!
 きっと、その働きは無駄に終わることはないでしょう。

 不思議は教会の専売特許ですが、無から有を生み出してくださる神様は、必ずお応えくださいます。
 ビジネスから見れば、先の見込みのない日本のキリスト教会ですが、原資は、この不思議な神様です。
 なんだか、来年もがんばりたくなりました。

 ところで、「ちょっと大げさに言えば教会の訓練。基本的な決めごとは子どもだからといい加減にしないでおこうと思っています」は、むしろ大人のクリスチャンにこそ必要かも知れません、 かな。

Re: 日本の伝道 - 東江公人

2007/12/26 (Wed) 22:24:48

一番難しいのが、大人なのかもしれません。
自分なりの生き方が確立してしまっていますから。
聖書の言葉で自分自身を変えてゆくことが最も大変な事業のように思います。

こどもクリスマス - 東江公人

2007/12/25 (Tue) 17:44:03

25日にこどもクリスマスをしました。
会は単純。ゲームをして紙芝居をしてプレゼントをあげてお仕舞い。

 ゲームは聖書の記事を絵にしたものの間違い探しゲームです。7つの間違いがあり、全部見つけたらゼーリー1個がもらえるというゲームです。
 商品はショボイものでしたが、ゲームとなるとこども達は俄然張り切ります。12名ほどのこどもが挑戦しましたが、全員やり通しました。かなり真剣でした。学校もいわゆるお勉強ではなくゲームのような勉強をすればいいのかなー?

 その後で、クリスマスの紙芝居を聞いた子達はお菓子の詰め合わせをもらって意気揚々と引き上げてゆきました。

 こども達の心の中に、教会の楽しいクリスマスの思い出が残るようにと願う一時でした。

こころに残るクリスマス - 寺田祐一牧師

2007/12/25 (Tue) 18:04:52

 なるほど、東江さんのところでは、イブ礼拝を行わず、25日に、子ども中心に行われるのですね。
 やはり目に浮かぶようです。
 昨夜盛り上がったのも、やっぱりyouthのメンバーが考えてくれたオリジナルクイズが中心だったのです。
 聖書に関すること、地元(吉川)に関すること、子ども、一般と、とても楽しく計画されていました。
 おみやげは、私たちの教会では毎年持ち寄りのプレゼント交換をしますので(500円ぐらいのもの)、もう少しよいかも知れませんが、これもまた子ども中心になりますね。
 
 名護における東江さんの、子どもたちを中心とした教会形成が伺えて勉強になります。
 きっと、子どもたちのこころに残るクリスマスだったでしょう。
 大切なことです� ��!

Re: こどもクリスマス - 東江公人

2007/12/25 (Tue) 18:35:12

今、名護の教会にとってこども達はとても大切な位置を占めています。
基本的にはこちらから宣伝は行っていません。ですからこども用のチラシはあまり作ったことはありません。看板はさすがに作らないとなーと思っているところです。こども掲示板と言う板を教会の玄関のピロティーニ置いてあってそれで連絡をしているぐらいです。

こども達が楽しい良いと思って友人を連れてくるようです。友達の輪と言ったところでしょうか。

まだまだ、試行錯誤の状況でどうなることやら…
 

Re: こどもクリスマス - 東江公人

2007/12/25 (Tue) 18:53:09

 こどもがこどもの友を連れてくる方法はなかなか有効ではないかと思っています。
 チラシなどで案内をする場合、お互い仲の悪い子達もやって来ます。そして子ども会の中で対立がはじまり雰囲気が悪くなり会が魅力を失ってきます。「お互いに愛し愛し合いなさい」と言う状況にはまだまだならないのですから、最初から友人が友人を連れて来るという方法はいいのじゃないかと思っているのです。

 他のこども達に来て貰いたいときは時間帯などをずらすようにしています。また小学生上級の子達は男の子と女の子は対立的な関係にありますので、別々に子ども会を持つように…などと色々気を遣ってはいるのです。

姉のともだち - Grace

2007/12/25 (Tue) 16:34:48

おはようございます。

今日はクリスマス。昨日は、すばらしい日を教会で過ごすことができました。
夜は少し、心が弾んでか、あまり眠れませんでした。
またその夜はこの御ことばに励まされました。

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいますマタイ28」

話は変わり、今朝も、私の姉の友達にあいました。
 ひとつ上ですが、亡き姉を忍んで、この間、私は不在ですが、うちに線香をあげにきてました。
 その方は小さいときからピアノが上手な方で、電車の中で、家族の話などしていて、また昨日はどう過ごしたのかという話になりました。
 私は教会でという話になり、私は、「教会に好きなピアニストかいるけど、ぜひ来て下さって、弾いて下さい。」と伝� ��ましたら「必ず行くよ。約束ね。」と握手をかわしました。
 どうか、これを読まれた方、ともに祈ってください。
 良いときに彼女がきてくださいますように。
 お願いします。

本当に! - 寺田祐一牧師

2007/12/25 (Tue) 17:42:35

 本当にそうでしたね!
 私も少し興奮してあまりよく寝られませんでした。

 私は「 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。マタイ6:34 」というみことばを、改めて思い起こしていましたよ。
 

 明日は どんな日か 私は知らない
 晴れか 嵐か 曇りになるか
 だけど私は心配しない イエスが私と ともにいるから

 明日は 私には わからないけど 
 明日を守られる イエスがおられる

                            「あすを守られるイエス様」

 以前、うちの教会で歌ったゴスペルですが、不思議に思い出してしまいました。
 いにしえの聖徒たちは、きっとこんな思いで福音を携え、歩んで行ったのでしょうね。

 お姉さんのお友だち、きっと来てるでしょう。
 祈ります!

共に祈りましょう - マルタ

2007/12/25 (Tue) 17:48:13

 今日は。
 マルタです。

 Graceさんの書き込み読ませて頂きました。亡きお姉様のお友達と現在も関わりが続いているのは、良いですね。
 そのシーンを想像していたら、とても寒い今日も、暖かな気持ちになりました。神様を信じている者たちは、家族を初め、皆が神様と出会ってもらえたらと願いますよね。
 私、マルタも何時もお祈りの中に覚えておきたいと思います。

ぶたのしっぽ - 東江公人

2007/12/25 (Tue) 17:10:16

 小学校の4年生の頃。1ヶ月ぐらい入院をしなくてはなりませんでした。大事をとっての入院でしたので体はどこも痛くはなく、毎日退屈な日々でした。
 
 こどもはおらず大人ばかりでした。ある日2才ぐら年下の女の子が入院してきました。それで自然に二人で遊ぶようになりました。
たっぷりある時間を遊ぶことで紛らわせたといっていいかもしれません。
 その中で、たぶん彼女が考え出したのでしょう。「豚のしっぽ」と言う遊びがありました。 それは単純なゲームです。色々と一方が質問をするのですが、片方は「豚のしっぽ」と必ず答えなければならないゲームでした。
 例えば…
 「あなたの好きな物は?」 「豚のしっぽ。」
「へーそんなのが好きなんだ。」
「じゃあ、ポケ ットに入っている物は何?」 「豚のしっぽ」

と言った、たわいのないゲームでした。ずっと前のことなのですが不思議と覚えているのです。

 じつは、最近それを思い出しすことがありました。
私たちの教会では、クリスマス祝会の時にめいめいが、1品を持ち寄って愛餐会の時を持ちます。僕と家内は「おでん」を作るために買い物に出かけました。その時に豚のしっぽが売られていたのです。

 沖縄では、おでんには豚足(てびち)はよく入れます。でもさすがに豚のしっぽは珍しいのです。

それで少しおもしろ半分に豚のしっぽおでんを作ろうと僕が、提案をしたのです。

愛餐会の時、皆が豚のしっぽおでんを食べているのを見ながら、昔の豚のしっぽゲームを思い出しながら「にやり」としながら楽 しい食事会の時を持ったのでした。

 そう言えば、クリスチャンと言う呼び名もアンテオケと言う教会でいつもイエスさまのお弟子達が、「イエスさま、イエスさま」と言うので周りの人に「あの人達はキリストさんだ」と言われ、自分たちの方でもクリスチャンと言うようになったようです。

 豚のしっぽを思い出しながら、私たちもいつもイエス様と叫びつつ歩んでゆく者に…と思った時でした。

沖縄のおでん - 寺田祐一牧師

2007/12/25 (Tue) 17:24:32

 ふーん、豚のしっぽか‥‥ 。
 どんな味がするのでしょう。
 一度食べて見たい気もします。

 でも、何だか楽しそうな雰囲気が伝わって来る愛餐会風景です。
 沖縄でもおでんはあるんですか。
 中にはなにが入っているんだろう‥‥ 。
 ゴーヤとか‥‥ 。

 来年はやはり、ぜひ調査に行って見なければ‥‥ 、などと考えている食いしん坊の牧師でした。

ただよう恵みのかおり - 寺田祐一牧師

2007/12/25 (Tue) 08:05:07

 「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢のあと」

2012年5月7日月曜日

フォトン・ベルトの真相


3600年
 3600年周期の謎     [INDEX]

 第1章では、世界で起きている天変地異、異常気象、生態系の変化、そして、小惑星のたび重なる飛来といったものを紹介し、検証してみた。その中で、注目すべき新しい情報が出てきた。
 それは、3600年周期で起きる地球の大クラッシュというレポートである。
 フォトン・ベルトは、1万1000年周期で大異変が起こるとされていたが、それよりもはるかに短いサイクルで、私たちの地球はポールシフトや絶滅現象を繰り返しているのである。どうやら、フォトン・ベルトの他にも何かしらの影響がひんぱんにあると考えざるをえない。
 すでに述べたが、地下都市計画もフォトン・ベルト対策という観点からは意味がないのに進行している。� �ォトン・ベルトだけでは説明がつかない事態に出くわしたというしかない。
 いったい私たちの地球は、いまどのような状態を迎えようとしているのか。
 2012年12月22日という日は、やはり最後の審判の時なのか。
 それは回避できるのだろうか。
 私はこれまで世界中の国々を旅してきて、それぞれの国でその国の文化と結びついた予言の数々を聞かされてきた。洋の東西を問わず、この変容の時代において、何かが大きく働きかけていることをそれらの予言から想像できた。時代をひっくり返すような出来事が、予言の中でシンボル的に実に詳しく述べられているのである。
 古代文明のほとんどに今日の情報が残されているという点に、私たちの今と未来が暗示されている気がしてならないのである。地球の最後
 地球の最後を予言した魔女      [INDEX]

 ある予言者を紹介したい。私がもっとも関心と興味を持っている人物である。
 15世紀のイギリスに、マザー・シプトンという女性の予言者がいた。彼女は普通の主婦だったのだが、「魔女狩り」に遭い、火あぶりの刑を受けて殺されてしまうまでの50〜60年の間に、じつにさまざまな予言を世に残した。中世の世界では、彼女のような特殊な知識を持つ女性や、特に神秘について明かす女性は魔女扱いされ、集団狂喜の餌食にされた。マザー・シプトンもそのひとりで、彼女は自分の死まで詳しく予知していたのである。
 彼女は予言を詩として残した。その中にはテレビや潜水艦、電話など、その時代の表現を使 ってではあるが、今日のテクノロジーについてすべてといってよいほど、詳しく予言している。
 では、彼女はどういうふうにして、それが予言できたのだろうか。未来を見るためには、まず時間に対する感覚を変えてしまうのではないかと私は思う。つまり、過去、現在、未来といった直線的な時間は存在しないという観点にならないと、予言できないのではないだろうか。
 つまり、マザー・シプトンは、タイムトラベルをしていたというふうに考えられるのだ。いやむしろ、時間の定義を変えることによって、今、ここに宇宙のすべてが存在するというふうにいったほうがよいかもしれない。
 そして、「すべてが融合する一点」(マージング・ポイント)に立ち会ったであろうマザー・シプトンは、人類の最後を予言し� ��いる。そこには「非常に大きな規模でのカタストロフが訪れる」と書かれているのである。
 それはいつ訪れるのだろうか?
 残念ながら彼女の予言でははっきりしてはいないのだが、流れをつかむことはできる。そこにはテレビらしきものが現れて、世界の王が戦争を引き起こし、そしてその後に、天にドラゴンが現れると書かれてある。また、データファイル8をご覧いただければ、そのドラゴンが通過するときに地球上の人間の記憶が消えるとか、大変な地変が引き起こされるなどと書かれてある。その後にはドラゴンは再び現れるとも言っている。ドラゴンは二度も地球を通過する。そしてその二度目が人類にとって最後の試練となると、文献には残っているのである。
マヤ、アステカ
 マヤ� ��アステカ、インカ族に伝わる2012年     [INDEX]

 実はそういう内容に似た予言は、中南米の古代文明であるアステカやマヤ、インカにも残されているし、アメリカ・インディアンのホピ族にもある。
 マヤ文明は紀元前1500年頃に興り、820年頃には急激に衰退した文明である。
 マヤ文明は天文学と数学が非常に発展していた。天体の動きに注目し、非常に正確に観測していた。
 彼らは2万5640年を大きな歴史のサイクルとして考える「ロングカウント・カレンダー」を持っている。そしてそれを5つに分け(1サイクルは5128年)、現在は最後の5つ目のサイクルとなっている。また、5つ目のサイクルのスタートは紀元前3113年、終わりが2012年12月22� �となっている。
(中略)
 いっぽう、アステカ文明にも同じようなカレンダーが残されている。多くの研究者がこのカレンダーと天文学のデータなどと対比したところ、過去の出来事や現代の出来事と驚くほど一致していることから、特に最近になって、未来の予言ではないかと注目されているものである。
 彼らもマヤと同様、地球の歴史を5つの時代に分けている。第一の時代は土、第二の時代は風、第三の時代は火、第四の時代は水によって滅び、そして現在われわれが住んでいる第五の時代は、カレンダーによると「火山の大爆発、食糧危機、大地震によって終わる」と記されているという。
 そして気になる滅亡の日付だが、それもやはり2012年12月22日(23日という説もある)というのだ。
 さ� �にインカ文明に目を向けてみると、古代インカ族の子孫がケロ族として現存している。アメリカの人類学の研究家ジョージ・ウィルコックはケロ族のシャーマンのもとで長期間トレーニングを受けた。その彼女が著書の中で、「ケロ族の予言では、世界を"父の時代""息子の時代""精霊の時代"の3つに分けている」とし、さらに「精霊の時代は1990〜93年の間に始まり2012年に終わる」と述べている。
 ここでも、フォトン・ベルト突入の時期とされる2012年がクローズアップされる。こうした符合はいったい何を意味するのだろうか。
終末の到来
 終末の到来はおとぎ話ではなかった     [INDEX]

 私は世界のさまざまな遺跡を訪ねながらいろいろデータを� �めた。そして古代文明に伝わる神話の中には、必ず2つの共通点があることに気づいたのである。
 ひとつは、古代人は暦にとても深い興味を示していて、正確なカレンダーが各々の古代文明において製作されていたということである。もうひとつは、そういったカレンダーを製作するのに必要な、高度な天文学的な知識を有していたことである。
 マヤも、アステカも、インカにしても、ここまで述べてきたように、きわめて詳しくサイクルを区切っていた。そしてそれぞれの時代の間にはブランクがあり、そのブランクはカタストロフ的な時期であると表現されている。
 本章の最後でも紹介するホピ族の予言が、それを一番わかりやすく説明している。例えば第一の世界があって、それが水によって滅び、その次の世界は 火によって滅び、そしてホピ族によると、現代は第四番目の世界であるというのである。そしてこれが最後の世界であると彼らははっきり言っている。
 マヤ族でも、第一、第二、第三、第四、第五世界があるといわれている。そして必ずそれらの世界へ移動する間にカタストロフが起きるといわれている。しかも、現在は五番目の世界、つまり最後のサイクルであり、それが終わるのが2012年12月22日と予言しているのである。
 このようにマヤやホピなどの先史民族が遺したカレンダーの奇妙な符合や、旧約聖書をはじめとする古代の文献に描かれたカタストロフの時期の一致などを考えると、これらのサイクルの最後と関係してくる現象はおとぎ話のようなものではなく、非常に物理的なものであろうと考えられる。

(中略)
世界中に遺された
 世界中に遺された二ビル伝説      [INDEX]

 話を二ビルに戻そう。シュメール神話によると、二ビルは木星とほぼ同じ大きさで、原始太陽系にとつじょ現れた惑星である。天王星と激突し、冥王星の引力を狂わせ、火星と木星にあった惑星ティアマト(フェィトン)を破壊した惑星であり、シュメールではその太陽系の出来事を、神々の戦いとして表し、それを「天界の戦闘」と呼んでいる。
 二ビルはメソポタミア周辺だけで語り継がれた惑星ではない。
 驚くべきことに、紀元前の古代の記録者たちは、謎の天体が地球に大災厄をもたらしたと記録していた。古代の世界では、この同じ星の存在について共通認識があったようである。
� ��中略)
ヨハネの黙示録
 「ヨハネの黙示録」に残された記述     [INDEX]

 ヨハネの黙示録には「天の星は地上に落ちた」「松明(たいまつ)のように燃えている大きな星が天から落ちてきて」「火のように赤い大きな竜」と記されている。
(中略)
「黙示録」は、ヨハネが絶望的な状況の中で啓示を受け、紀元95年頃に著された、地球の最後について描かれた書である。
ファティマ第三の予言
 ファティマ第三の予言と二ビル     [TOP] [INDEX]

 余談ではあるが、聖書で Worm Wood と呼ばれている二ビルを観察するために、バチカンでは数十年前からすでに天文台を設置しているという話がある。彼らは天文学に真剣に取り組んでおり、アリゾナ州にあるマウント・グラハム国際天文台は、バチカン市国によって建設され、彼ら自身で望遠鏡が組み立てられているほどだ。

2012年5月5日土曜日

嫁が受け取っている神託を話そう ただ起きてしまうのを待っているのも何ですのでゴソゴソしておりました


 この丸干し、少しばかりとある修法を朝方終えました。

 修法の種類などは言及出来ませんが、とりあえず旧正月の無事を祈りたいので
指を加えて待つという芸当が出来ない丸干しが勝手に行ってしまったわけです。

 見えない聞こえない判らない丸干しですので、効き目があるのかどうなのかは定かではないのですが、私一人がジタバタしているわけではなく、日本全国で数多い方々が災害は起きて欲しくないと念じられているわけです、警戒は必要ですが出来ることなら被害は少なく、起きないならば更に良しと考えています。

2012年5月4日金曜日

真実の道 − クリスマス、それは悪魔の欺き


 

ああ、待ちに待った喜びいっぱいの"祝日(ホリデー)"、クリスマス。世界はほかのどんな行事よりもクリスマスを待ち望んでいるように見えます。遠くから帰省して家族や友人が集まれる年に一度のとき。財布の紐(ひも)がゆるんで、いつもより寛大な気持ちになるとき。雇い主たちは普段より少しゆったりとして、スタッフには寛大に、日ごろの感謝をプレゼントやボーナスなどで表現します。個人や企業はチャリティで貧しい人たちに寄付をし、人々はギフトや贈り物を贈ったり、電話やパーティーなどであいさつを交わしたりします。また、普段教会に行かない人たちが教会に行くための、年に何度かの機会でもあります。しかし、この祝日(英語でホリデー「holiday」=holy「神聖な」+day「日」)には、残念ながら� ��く「聖なる日」という意味はなく、また神が定めた祝日でもありません。

クリスマスとは、なんて偽ものの神なのでしょう!異端者(不信心者)のための、なんて"聖なる"祝いであることでしょう!そして、いわゆる"クリスチャンたち"にとって、なんてうっとりするようで、なんて大事な、なんて嘘にまみれた祝い!

「クリスチャンでありながら、どうしたらクリスマスを祝わないでいられるのですか?!キリストの誕生を信じないのですか。救い主の誕生を祝うことが、どうしたら間違いになるのですか。もしなにかひとつ、祝う価値があるものがあるとしたら、クリスマスではないのですか。もし神が生まれていなかったら、私たちには希望がありません。あなたは、今までにクリスマス気分を味わったり、クリスマス精神を経験したりしたことがないのですか。他人に施すことを考えないのですか。」このような、クリスマスを祝う理由に関する感情論をよく耳にします。

一見してクリスマスは、最もすばらしく、自分のためではなく周囲の人のための、楽しくて純潔な、さらにはこの世の中で最も信心深い、神の行事のひとつだとみなされています。しかし実際は、道理に反した、変態欲や戦争、犯罪やわいせつが渦巻く、思いつくかぎりほとんどの悪事がはびこった最も邪悪で破壊的な行事のひとつです。その理由をこれから、単なる意見としてではなく、事実と真実によって説明します。そしてその真実というのは、毎日の生活の中の地に足ついた現実からの真実、そして経験からの真実です。人々は、聖書にクリスマスの基盤があるはずだと誤解していますが、人々がそう思って使っている聖書のまさにその一節一節から、神の御前でクリスマスが犯罪であり、その犯罪をそうと知らずに楽しんで犯� ��ていることについて、その真実を説明します。神は、神の民とそうではない人々の両方がクリスマスによって傷つけられているという事実を憎んでおり、そして、神はとても傷ついています。

人は神が愛するものを憎み、人は神の憎むものを愛するということをあなたは知りませんでしたか。神を信じないものが、クリスマスを愛するということはどうでしょう。世界中の人々が邪悪の中に生き、クリスマスを愛しているということはどうでしょう。「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。(ヨハネの手紙一 5章19節)」クリスマスが世界中で人々に尊ばれるものであることが否定できますか。「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。(ルカによる福音書 16章15節)」と書いてありませんでしたか。

クリスマスは元来、清いものでも、いいことでも、聖なるものでもありませんでした。ただこの世の混乱のうちに、不信論者の影響を受け、都合よく加えられたり減らされたりして、商業化されました。むしろそれは異教徒の祝いであり、偶像崇拝であり、迷信であり、悪です。そしていわゆるクリスチャンたちは、クリスマスを自分たちが楽しむための道具として、さらには、神を信じていない人々をその楽しさでキリスト教におびき寄せるための道具として政治的に用いました。

「クリスマス」(Christmas)という言葉は、神からきたものではなく、ローマ・カトリック教会に起源をもちます。カトリック教会の"ミサ"(カトリック教会で聖体拝領と呼ばれる式をミサと呼ぶ。「キリスト(Christ)」と「ミサ(Mass)」から「クリスマス」(「Christ-Mass」→「Christmas」)となった)からきた言葉です。ミサの主な考え方は、いわゆる"全質変化"として知られる奇跡によるもので、牧師が5つの呪文を唱えると、パンとぶどう酒が主イエス・キリストの肉と血に聖変化するという説によるものです。教会員やミサの聖職禄受領者であると名づけられた人々の罪は、生贄として神に供えられます。礼拝の中でそれを受けたい人が前に進み出て、主イエス・キリストの肉と血、つまりパンとぶどう酒を受け取るのです。この ミサは世界中で、毎週日曜日に行われています。ほかの曜日に行うところや、毎日行うところ、さらには一日一回以上行うようなところまであります。私の理解ではミサは、実際に何度も何度も主をはりつけにして苦しめているだけです。単なる記念的な儀式としてではなく、現実に(もちろんそこで物理的にパンとぶどう酒が神の肉と血につながっているというわけではありませんが)生贄として神を犠牲にして傷つけています。キリストのミサ(そして「=クリスマス」も)という名をつけておきながら、やっていることは神を傷つけることだとは、ずいぶんなことです。

カトリック百科事典やブリタニカ百科事典含め、多くの百科事典が、クリスマスはキリスト教初期の頃から、キリスト教に全く起因していないといっています。本当に全く、いつの時代でも、クリスマスは本物のキリスト教信仰に起源をもちません。しかし4世紀頃になって、クリスマスが「キリスト教徒」の祝宴として明らかに取り入れられました。紀元前3000年のエジプトで、オシリス(古代エジプトの幽界の王)とイシス(古代エジプトの豊饒と受胎の女神でオシリスの妻)という異教の神々をあがめている慣習と伝統から、その主要な要素を借りて、'その'行事が「キリスト教徒」のものにすりかえられたのです。あなた自身で歴史を暴きたいという読者の方々のために、あまり細かい事実をここで掘り出してしまうつもりはあ� �ません。インターネットなど、多くの情報源から探し出してみてください。しかしながら、情報のみでは、そこにあるスピリットや真実を知ることはできません。神と神の記したものこそが、あなたに完全な理解を与えます。

自分がクリスチャンだという人がはじめに自問自答しなければならない質問は、1、なぜクリスマスを祝うのか、そして、2、神は私たちにクリスマスを祝って欲しいのか、ということです。聖書の中には、クリスマスを祝うことについて、何ひとつ記述はなく、それをほのめかすような部分さえも存在しません。逆に、神がそれを欲していないということは、多くの部分で読み取ることができます。厳粛な祝いについては書かれていますが、注目してほしいのは、その"厳粛さ"です。お祭り騒ぎではなく、厳粛な祝いが、ユダヤ人が守るべきこととして、神によって命じられたということです。これらの祝いは、それぞれ、私たちにとって神の死であり(過ぎ越しの祭り)、神が私たちに聖霊を与えて私たちが神の中に生き、神が私た� �の中に生きることであり(五旬祭)、神が私たちとともにこの地球上で神の中に満ち、神との統一感があり、神の中に安らいで生きること(仮庵祭)を祝うものです(この3番目の仮庵祭を"神の再臨"を表しているという人もいます)。

2012年5月2日水曜日

ビマ


ã"の項目では、インドネシアの都市について記述しています。ユダヤ教シナゴーグの設備については「ãƒ"ーマー」ã‚'ã"覧ください。

DEWI SHINTA BIMA DEWI SRI
ãƒ"マ (Bima) は、インドネシア西ヌサ・トゥンガラ州、スンバワ島東岸の都市である。人口12万3064人 (2005)。