2012年5月13日日曜日

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 癒しの体験を持っている人は、おおぜいいると思います。私も何度か、主からの癒しをいだだきましたが、今日はその証ではなくて、癒しに関して私が見たり聞いたり、教えられたり、考えたりしたことについて、話してみたいと思います。

 私たちの信じている神様は、全能の方ですから、癒す力をもっておられます。私たちを創られた神様は、私たちを癒すことができるのです。

 イエス様が、荒れ狂う海の波をお静めになったことが、聖書に書いてありますが、それは、イエス様が自然界の主であられることの証明でもあると思います。自然界、時間、空間、そして万物の主であられる神は、人間の体の主でもあられるのです。

 それに、神様は私たちを愛し、私たちのことを顧みてくださっているので、私たちを癒すことを、よしとしてくださるのだと思います。ただ、その神様の癒しは、ワンパターンではなくて、多様なのです。

 聖書の中でも、イエス様が人を癒された方法は、いろいろであることが解かります。旧約聖書にも、癒しの記事がありますがやはり一様ではありません。

 現代でも、牧師や癒しの賜物を持っている人に、祈ってもらって癒された、という人もありますし、自分で一所懸命祈って癒された、という人もあります。また、教会でみんなが心をあわせて祈り続けたので、多くの人の祈りが積まれて、癒されることもよくあります。

 癒しには、神様の聖手による直接的なものもあり、医者や、薬や、健康法といった、何らかの媒介による間接的な癒しもあると思います。イエス様は、最も力ある癒し主ですが、医学を肯定しておられます。「丈夫な人には医者は要らない、要るのは、病人である」といって、医者の必要を認めておられます。

 また、「ルカの福音書」と「使徒の働き」を書いたのは、ギリシャ人の医者ルカでした。「医者」という、科学的見地からものを見る立場にある人が、神の直接的な癒し、つまり奇跡を記していることは、聖書に書いてあることが、実際に起こったこと、まやかしや作り話でなく、まちがいなく事実であるということの、大きな証明であるといえると思います。


減量のための祈り

 ある病気は、(ある人は)、どんなに祈っても。医学のあらゆる方法を試みても、癒されない、ということがあります。それは、その人の信仰が強いとか、弱いとか、神に対して忠実であるか否か、などにはあまり関係がないようです。死者さえ生き返らせたパウロほどの信仰者でも、自分の病気は癒されなかったと言っています。

 このようなことに関して、もうかなり前のことになりますが、私は一つの忘れられないことを聞いたことがあります。日本に来ていた中年の男性の宣教師のことです。その宣教師は、ある時の集会で、「自分は特別な病気をもっていて、一日500円以上もする薬を毎日飲まなければ、生きていることができない体である」と話されました。

 その薬代のために、祖国の多くの祈りの友が、特別に献金してくださっているのだと話されました。(この方は今はもう、リタイヤされたか、天に召されたかもしれませんが…)私はこの話を聞いた時「どうして神様は、この方を癒されないのだろうか? もしこの方が癒されたら、一ヶ月2万円近くもの薬代が浮くでしょうし、それを、伝道のためにもっと有効に用いることができるのではないだろうか。」と思いました。神様は何か無駄なことを見過ごしておられるように思いました。

 しかし、これは私の浅はかな考えであって、神様にはもっと尊いお考えがあるのだということに、後で気がつきました。神様は、その宣教師の方が、重い病気を押して日本の魂のために労される、そのお働きを豊かに用いてくださっていることを知りました。

 また、その先生をサポートしておられる方々の心には、健康な宣教師に対するよりも さらに深い愛と、熱意が燃えているのだと知りました。自分たちの献金に一人の宣教師の命が掛かっていると思えば、どんな犠牲を払ってでも献げ続けなければ… と、熱い祈りのうちに、尊い献げものが届けられているのだとわかりました。


減量の経典

 神様のお力とあわれみによって、私たちの病気が癒されることは、とても幸いなことであり、感謝なことですが、たとえ癒されなかったとしても、その中で。主に信頼し、主との交わりを深めることができたら、それもまた、祝福なのではないかと思います。癒されるほどの信仰と祈りは、すばらしいものですが、今は癒しをいただけなかったとしても、主を疑わず、主と共に歩む人の信仰は、さらに素晴らしいのだと私は思います。

 病気になって一番辛いのは、病気のために心まで弱くなり、暗くなって沈んでしまい、感謝も希望も失ってしまうことです。私はあるとき、同時に三箇所の体のトラブルに悩まされたことがありました。足を怪我して、風邪で喉が痛くなって、お腹をこわしたのでした。それで私は主につぶやいてしまいました。

 「どうして私ばっかり、こんなにいっぱい…」と。すると主は「それではあなたは、目が悪いのか。耳が悪いのか。手も傷めたのか。頭が悪いのか(能力のことでなく)。心臓もか。肝臓もか。腎臓もか…」「いいえ、いいえ、いいえ主よ、すみません。悪い所はたった三つで、大丈夫なところがその何倍もありますのに、すぐ呟いてしまったことをどうぞおゆるしください。」と私はお詫びして、主に感謝しました。人は、辛いことがあると、そのことばかりに気を取られて、恵みをいただいている多くの面を、見落としてしまうのでないかと思います。だから、病気など、辛いことの中で絶望してしまうのかも知れないと思いました。


キリスト教とうつ病

 ある人が私に尋ねたことがありました。「腰が痛かったので、一生懸命祈ったら癒されたんです。ああ良くなった、と思って喜んでいたら、また、そのうち痛くなったんです。これは、主の癒しではなく、自分の思いこみだったんでしょうか?」私は、「そうではないと思います。祈って癒しを体験したのは、やっぱり癒しだったと思います。ただ、たとえば車でも修理してもらって、直りますよね。そして元のようにちゃんと走るようになりますが、また故障したりもします。そしたら、あの時修理に出して、直ったことは事実ではなかったのかというと、そんなことはないですよね。私たちのこの肉体はテンポラリーなものですから、その癒しも地上ではテンポラリーなもので、永遠ではないのです。」

 私たちは壊れやすい土の器です。ですから。この地上にある内は一度癒されても、また病気になることもあるわけです。もし、頭が痛いので祈ったらよくなったのでしたら、それはやはり主の癒しとして感謝したらいいと思います。また痛くなったら、また祈る、その繰り返しで少しもおかしくないと思います。

 人生は同じようなことの繰り返しで成り立っているのですから、信仰者も、聖書を読む、主に祈る、感謝する、信仰者としてなすべきこを守る、より神様を知るために励む、等などのことを繰り返していくのです。毎日、毎週、毎月、毎年少しも変わらず、止めることをしないで、繰り返していくのです。大切なことは繰り返すことで実を結ぶのですから、それはとても価値ある生き方なのです。

 私は、体力にはあまり恵まれていないので、無理をすると必ず健康の面でブレーキが掛かってしまうものですから、それをかなり苦にしてこんなふうに祈ったことがありました。「神様、もし私に、どんなに痛めつけられても傷つかない心と、どんなに無理をしても疲れない、頑丈な体を与えてくださったら、私はあなたのために何でもします」と。


 しかしこれは、間違った祈りでした。神様は私たちを鋼(はがね)の器として作りませんでした。壊れやすい土の器として作られたのです。ですから私たちは、ちょっとしたことでも、傷んだり病気になったりするわけです。そのことを諭されたので、私の祈りは変わりました。「神様、あなたがこの弱いものを支え、守ってくださいますので、私はあなたのために、自分の出来ることを一所懸命いたしますので助け導いてください。」

 どこかが痛い、だるい、熱がある、などの普段とは違う体の症状には気をつける必要があります。それは健康の赤信号として、神様が私達に与えておられる貴重なサインですから、ないがしろにしないで、薬や医者に行くべきかどうかも考えて、神様の導きを祈ることも大切と思います。

 生まれつき丈夫な人と、体の弱い人がいますが、丈夫な人は、その体力を主にささげて働き、体の弱い人は、自分の健康管理によくよく気をつけながら、やはり、その体を主にささげることが大切だと思います。

 自分が土の器であることを思って健康に気をつけることは大切ですが、でも、ちょっと具合わるいからといって、「なにも出来ない」「どこへも行けない」というのも残念だと思います。寝込むほどのことでなかったら、少しぐらいは我慢して、主が支えてくださると信じて歩んで見ることも大切なのではないかと思います。

 病気は辛いことですが、しかし、病気がしばしば、人の心に優しさや、謙虚さや、忍耐や、深く考える姿勢など、人としてとても尊いものを与えることもあると思います。例えば、星野富広さんや、水野源三さんのような方が、もし健康な人だったら、あんなに人の心を打つ、美しい詩や絵を描かれただろうか…と思うことがあります。

 体の癒しは、心の癒しと同様に、主が恵みとして与えてくださることを信じて、これからも共に祈っていきたいと思います。でも、たとえ体の具合が悪い時でも、主が、寄りすがる者を常に顧みていてくださることを信じて、主への感謝を忘れないように、励んでいきたいと思います。

2007年2月


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