○政治における「権謀術数」(アメリカの黒人解放の歴史)
アメリカ合衆国は「民主主義国家・他民族国家」であり、多くの民族が溢れている。しかし20世紀までは、「黒人差別を平然と行う名前だけの『民主主義国家』」であった。そんな「黒人に対する人種差別」と戦った勇気あるアメリカ人を三人紹介。ただし、一人は白人の「偽物」。二人は黒人の「本物」。
その1.「偽物の黒人解放者」エイブラハム・リンカーン大統領
なぜ、リンカーン大統領が「偽物の黒人解放者」なのか不思議に思う人もいるかもしれない。世界史の授業で、リンカーンは『奴隷解放宣言』を出して「黒人奴隷を解放」し、「人民の人民による人民のための政治」という名台詞を残した「偉大な人物」として紹介されたことを覚えている人もいるだろう。が、実のところ、彼は「黒人奴隷の解放」などやっていない。
大統領リンカーンの時代にアメリカが北部・南部に分裂した「南北戦争」が起こったことは有名だ。黒人奴隷の解放を主張する「北部」とそれに反対する「南部」との戦いは、大統領リンカーンの活躍によって「北部」が勝利する。だが『奴隷解放宣言』が出された後、「黒人への差別」が消えた訳ではない。その理由を知るには「南北戦争」の正体に迫るのが近道だろう。
「アメリカの南部の経済」は「黒人奴隷」を働かせて大量の「綿花」を栽培させ、イギリスに輸出することで成り立っていた。これに対して「アメリカの北部の経済」では「産業革命」が起こり、「工場で働く多くの労働者」を必要としていた。
そこで「北部」の有力者たちが目をつけたのが「南部の黒人奴隷」であった。「北部」の人間の本音は「黒人を北部へと移住させ、北部の工場で働かせる」ことである。ただし、障害があった。「黒人」たちは「奴隷」であり、「南部の奴隷の持ち主」から離れて北部へ移住することはできない。そのため「北部」の有力者たちは「黒人たちを奴隷にするのは人の道に反している」と人情に訴えた。この考えに賛同し、民間レベルで「黒人解放」のために努力した人々はいた。
しかし「北部」の人間たちにとって「黒人奴隷の解放」など「どうでも良かった」のである。「南部から黒人を奪い、北部で働かせる」ことこそ彼らの本当の目的なのだから。そしてリンカーンは「北部」の代表者であるため、「偽物の黒人解放者」にならざるを得なかった。
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当然のことながら「南部」は「北部」に反発する。「黒人奴隷」を失ったら、自分たちが生活に困るからだ。「南北戦争」とは「黒人奴隷解放に賛成か反対か」ではなく「北部と南部の利権争い」が原因で始まった戦争だった。
やがてリンカーンは『奴隷解放宣言』を公にする。その内容は「南部の黒人奴隷を解放する」とあったが、「奴隷制度を認めた北部の地域では、黒人奴隷を解放しない」というものだった。『奴隷解放宣言』とは「南部の黒人奴隷たちを寝返らせ、北部の味方にする」ための策略であった。現に南北戦争では、「南部から逃亡した黒人兵士たち」が「北部」のために戦っている。大統領リンカーンにとって重要なのは「黒人奴隷の解放」ではなく、「『南北戦争』に勝利してアメリカを再び一つの国に戻す」ことだった。
ただし、個人としてのリンカーンは「優しい心の持ち主」だった。リンカーンは議員に立候補した時、一人の少女から「髭を生やした方が立派に見えるわよ」とアドバイスを受けた。髭を生やして当選し、議員になると、「君のおかげで議員になれたよ」と言って、リンカーンはその少女を抱き上げた。
この人物はリンカーンの南北戦争における宿敵ロバート・エドワード・リー。アメリカ史上屈指の名将であり、リー将軍が率いる「南部軍」のためにリンカーンは散々苦しめられた。それでもリンカーンは、「南部軍総司令官」リー将軍を憎悪することはなかった。なぜなら、リー将軍は大統領リンカーンに協力し、「南北戦争」を防ぐため懸命に努力した人物だったからだ。
リー将軍は「南部」出身だったが、道徳的立場から「南北戦争反対」と「奴隷制度反対」を主張していた。しかし大統領となったリンカーンは、前述したように「奴隷解放運動」を進めることなど許されない立場にあった。
大統領リンカーンとリー将軍の努力も空しく、「南北戦争」が始まる。リー将軍は故郷の「南部」を守るために「南部軍総司令官」となった。リンカーンもまた、「南北統一とアメリカの平和回復」が重要課題となり、「本物の奴隷解放論者」にはなれなかった。
それでも南北戦争終結後、「黒人奴隷の反対」を主張し続けたリー将軍の罪を許したことから見ても、リンカーンは時間をかけて本当の「黒人奴隷の解放」を実行したかったのかもしれない。だが、1865年4月15日、56歳のリンカーンは戦争終結後、暗殺されてしまう。
創始者は誰であった
「南北戦争」に勝利するための策略ではあったが、リンカーンの『奴隷解放宣言』は高く評価され、後世の「民権運動」に大きな影響を与えた。そして「バージニア州・ワシントン大学の学長」となったリーは「アメリカの人材育成」に取り組み、これが「その2」の人物が登場する道を開いた。
その2.「本物の黒人解放者」マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師
「黒人への人種差別」をなくすために命懸けで戦い、勝利したのはこの牧師である。幼いころ仲の良かった二人の白人の友達と遊んでいるとき、「(黒人である)あなたとはもう遊ばせません!」と二人の母親から宣言され、大切な親友を失った。これがキング牧師の「差別との戦い」の始まりだった。
まず、当時のアメリカのバスが最悪だった。黒人の老婆が、誤って白人専用の席に座っただけで、周囲の白人乗客が怒り狂って黒人の老婆を殴り、蹴り、リンチをする。高校生だったキングもまた、バスの中で白人から席を譲れと強制され、激しく怒った。これが後の「バス・ボイコット」につながっていく。
大学生のときは、食堂で料理を注文したが、キングが黒人だったため、白人の店員は彼を無視した。だが、皮肉なことに、その店は「ボストン北部」にあった。当時の「ボストン北部」は「人種差別」を禁止しており、キングを無視した白人の店員は「人種差別罪」で逮捕されてしまった。
このような経験をしたキング牧師は「人種差別」の正体を知った。「人種差別」など「差別する側とされる側、両者に悲劇をもたらすもの」であることを。
キング牧師が選んだ「差別との戦い」は尊敬するインド独立の指導者モハンダス・カラムチャンド・ガンディーと同じく「非暴力主義」であった。「暴力」ではなく「言論」を武器とし、黒人に冷たく接するバスに乗らずに歩いた。何度警察に逮捕されても、キング牧師は自分の戦いを続けた。
「私には夢がある。いつの日か、ジョージア州の赤い丘の上で、かつての奴隷の子達と、かつての奴隷の所有者達の子達が、兄弟愛というテーブルで席を共にできることを」
このキング牧師の演説は「 I H a v e a D r e a m 」と呼ばれ、多くの黒人・白人の心を動かし、アメリカの歴史に刻まれた。そして1964年7月2日に「公民権法」が制定され、建国から約二百年間も続いた「法の上における人種差別」が終わりを告げた。同年12月10日には、キング牧師にノーベル平和賞が与えられた。
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だが、キング牧師の勝利の後には悲劇が待っていた。黒人勢力の大部分は過激派であり、キング牧師の「非暴力主義」に反対する者も多かった。キング牧師は「ベトナム戦争」に反対する運動を続けながら、「非暴力主義」を守った。その結果、「非暴力主義」は時代遅れの思想と見なされ、キング牧師は白人からも黒人からも孤立する。
1968年4月4日、39歳のキング牧師は白人男性のジェームズ・アール・レイによって射殺され、その生涯を終えた。
その3「犯罪者から本物の黒人解放者になった」マルコムX
マルコムX(本名マルコム・アール・リトル)。彼の少年時代は悲惨なものだった。父親は黒人を敵視する「KKK(クー・クラックス・クラン・白人至上主義者)」の手によって惨殺された。頭が変形するほど殴られ、体が三つに切断されるという「殺人事件」であったのに、警察は「自殺」と判断し、ろくに捜査もしなかった。さらに父親が「自殺」とされてしまったため、保険金はわずかな額しかもらえなかった。その後、マルコムの母親は精神を病み、病院へ送られた。
学校での生活も悲惨だった。周囲は白人ばかりで、彼の席は常に一番後ろだった。白人教師から将来何になりたいかを聞かれた時、「弁護士か医者」と答えたが、教師からは「黒人はどんなに頑張っても偉くなれない。黒人らしい夢を見た方がいい」と笑われ、手先の器用さと人当たりの良さを生かして「大工」になれと言われた。
このような過去を持つマルコムは、犯罪者となった。ギャンブル、麻薬取引、売春に手を染め、強盗をして逮捕されたこともある。やがて彼は獄中で知り合ったイライジャ・ムハンマドと彼が主張する「ブラック・ムスリム運動」に影響され、ムスリム(イスラーム教徒)になった。やがてマルコムは「マルコムX」と名乗り、イライジャ・ムハンマド率いる「ネーション・オヴ・イスラーム教団」に参加し、キング牧師とは正反対の「暴力をも辞さない過激な黒人解放運動」を始めた。
1962年、マルコムXの人生が狂う。尊敬していたイライジャ・ムハンマドが少女を強姦し、子供を産ませていたことが明らかになったのである。絶望したマルコムXはイライジャ・ムハンマドを告訴した後、「過激な黒人解放運動」から距離を置いた。やがて、彼はイスラームの聖地メッカへ巡礼の旅に出る。
メッカに巡礼したことは、マルコムXの人生を大きく変えた。同じ「ムスリム」であるという理由だけで、国も人種も言葉も違う人々がマルコムXを暖かく迎えてくれた。マルコムXは悟った。「白人を憎み、黒人として戦った自分」がいかに「小さな人間」であったかを。
1964年3月、マルコムXはこれまで敵対していたキング牧師と偶然出会い、短い挨拶を交わした。これが二人にとって「最初で最後の出会い」であったが、マルコムXの「黒人解放運動」は変わった。イスラーム教徒であるマルコムXは、キリスト教徒であるキング牧師の支援さえしようとした。が、マルコムXは、かつての同士「ネーション・オヴ・イスラーム教団」の手で1965年2月21日に暗殺される。イライジャ・ムハンマドのスキャンダルを告訴し、教団から離れたマルコムXは「裏切り者」として粛清された。享年39。
その前から何度も暗殺されそうになったマルコムXは「 F B I やC I A も自分の暗殺計画に協力しているのではないか?」と語り、それは彼の死後も噂となって残った。暗殺犯三人のうち、二人は1980年代に「仮釈放」され、無期懲役となったタルマージ・ヘイヤー(本名トーマス・ヘーガン)も、2010年に「仮釈放」を認められた。
マルコムXの死を誰よりも悲しんだのは、宿敵だったキング牧師だった。暗殺されるまでの三年間、穏健派キング牧師は、まるで「ネーション・オヴ・イスラーム教団」にいたころのマルコムXのような「過激な発言」まで口にしたという。
その4. I H a v e a D r e a m
「偽物の黒人解放者」ではあったが、世界各国の「民権運動の道筋」を開いたリンカーン。
「公民権運動」によって、「黒人解放」に成功したキング牧師。
「犯罪者」から始まり、最後は宿敵だったキング牧師に協力しようとしたマルコムX。
偽物一人と本物二人の戦いは決して無駄ではなかった。黒人の血を引くバラク・フセイン・オバマ・ジュニアは「アメリカ合衆国大統領」となった。
参考引用文献
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