2012年6月9日土曜日

帰天司祭名簿


帰天司祭名簿

札幌教区関係帰天司祭名簿



最終任地 名前 帰天年月日
旭川大町教会 浅 井 晴 夫 昭和53年 7月 8日
本別教会 ミオン・ステフアノ 昭和53年10月 9日
雪の聖母 木内  藤三郎 昭和53年12月16日
北見教会 スタニスラオ・ムルダー 昭和56年 8月 4日
円山教会 大 谷   勇 昭和57年 3月30日
千歳教会 高 橋 幸 男 昭和57年 9月 2日
利尻教会 武 宮 雷 吾 昭和58年 8月 4日
前教区長 瀬 野   勇 昭和58年 9月30日
池田教会 ボナウエントウラ・トヌッティ 昭和59年2月13日
富良野教会 ケルネル・ルドルス 昭和60年 4月14日
トラピスト大院長 満 野 清 水 昭和61年 5月13日
長沼教会 大 友 良 夫 昭和62年10月27日
札幌教区長 冨 沢 孝 彦 平成 元年 3月26日
倶知安教会 佐々木 羊 三 平成 3年 2月 9日
滝 川 カトリック教会 山野井 克 栄 平成 4年
桃 山 カトリック教会 ヨゼフ・ラッキ− 平成 5年10月25日
ベネディクトハウス 長 坂 親 秀 平成 6年11月 5日
北 見 地 区 太 田 哲 也 平成 7年 8月 8日
天 使 病 院 中 川   寿 平成 8年11月18日
釧路新川教会 Mattuzzi Gianncrisostomo 平成 9年 3月18日
本別教会 竹本 茂 平成 9年 4月 2日
円山教会 林  忠 実 1998年9月1日
釧路地区 ブレッサン・ダミアノ 1998年11月28日
札幌地区 中川宏 1999年1月19日
旭川地区 メーランド・ヤヌワリオ 1999年1月20日
札幌地区 片山久史 1999年6月5日
札幌地区 浅井正三 1999年12月16日
マリンガ教区(ブラジル) 田中 亮 2001年3月18日
旭川地区 MUELLER RUPERT 2001年5月2日
新田教会 林信夫 2001年6月13日
札幌フランシスコ修道院 鈴木宗太郎 2002年12月5日
真駒内教会 今田共栄 2003年3月13日
トラピスト修道院 高木正義 2004年1月31日
江別教会、司教館秘書 石上昭夫 2004年2月3日
フランシスコ会ベネチア管区 ステファノ・チビディニ 2005年9月7日
網走・美幌教会 場ア 柔晨 2005年9月11日
円山教会 橋本 力 2005年9月28日
月寒教会 澤田 茂 2006年7月20日
真駒内教会 浅沼 正三 2007年4月22日
イタリア・パドア エルメテ・ミカエル・ヴィアーレ  2008年1月29日 
メリノール会本部 ジェームス・ゴルマン 2008年2月3日 
大麻教会  近野 亘  2008年7月5日 
北1条、北26条協力 井戸井 栄  2008年7月11日
メリノール会本部 ジェラード・L・ボーソレイ  2008年8月8日
メリノール会本部  ジェームス・W・オニール  2010年1月29日 
ドイツ・フルダ  テオドール・H・シーベル  2010年5月8日 


フランシスコ会士で、長年、旭川地区(富良野、稚内、旭川六条、名寄等)で宣教司牧にあたっておられたテオドール・シーベル神父が、目の治療のために戻っておられたドイツのフルダで2010年5月8日帰天なさいました。皆様の生前のご厚情に感謝いたします。神父様の神様のみもとでの安息をお祈りください。

2012年6月4日月曜日

痛みの文化人類学:anthropological Understanding For Human Pain


痛みの文化人類学:anthropological understanding for human pain

かならず読んでください

痛みの文化人類学

池田光穂

  1. 痛みとその解釈の歴史
  2. 痛みを取り去ること
  3. 痛み経験の民族差
  4. 試練としての痛み
  5. 痛みの文化的意味
  6. 献辞[一部でも読んでくれた方に]
  7. 文献

    痛みの文化人類学的研究にたずさわるものは、ヴィトゲンシュタインの次のような言葉をつねに思い浮かべざるを得ない

    「痛みという言語表現は泣き声にとって代わっているのであって、それを記述しているのではない」。

    自戒を込めて言うのだが、痛みの文化について考察する際には、"その儀礼には痛みが伴い、若者にとって試練を科す"とか、"彼女は当時の経験を思い起こして、心に痛みを感じた"──最近では"癒し"という怪しげな用語──などという表現をする同業者には用心して耳を傾けるべきだ。なぜなら他者の痛みを共感することはできるが、他者の痛みそのものを感じることが我々にはできないからだ。より慎重に言えば、文化人類学にとっては他者の痛みを<共感する>ということ自体すら延々と記述するに値する重要なことがらなのである。


 痛みとその解釈の歴史


    他者の痛みを同じように感じることができないことを私たちは知っている。過去人びとの痛みを感じることも不可能であることは言うまでもない。

    痛みと人類の歴史について言及する際も、同じ事情で「痛みをどのように感じたか」ではなくて、「痛みをどう理解したか」あるいは「痛みにどのように対処したか」について書物の多くのページがさかれている。現状においては、"痛みの歴史"とは"痛みの古典理論"について振り返ることであり、時には"鎮痛や麻酔の歴史"を意味することもあるだろう。

    17世紀にデカルトが、痛みを全体的な体験から切り離して別個に考察するような理論を打ち立てるまでは、痛みは人間の全体性とともにあった。痛みは長いあいだ人間の全体の感情を形成するなにものかとされていたのである。

    古代ギリシャでは、痛みは人間の情念(パテーマータ)のひとつとして考えられた。プラトンによると、神々は魂に対して死すべき肉体を与えたが、その際に別種の「死すべき魂」を形づくった。これは「恐るべきそして避けることのできない情念を」備えていた。苦痛は、快楽・大胆・恐怖・欲望・希望とならんでこの情念の一種をなしている。アリストテレスでは、情念は魂の基本的な要素であり、快楽や苦痛をともなう。彼は、痛みを『霊魂論』にあげた視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚という五つの感覚よりもむしろ、生理的な反応によってひきおこされる不快や苦しみである情緒としてとらえる。『動物部分論』のアリストテレスによれば感覚の起源は心臓にある。知覚の波が血管に沿って心臓に伝わるが、それが激しいとき痛� ��という情緒が生じると説明する。このような見解は中世のキリスト教神学においてもさほど変化しなかったとみてよい。

    デカルトは、痛みとそれに反応する人体の《反射》の概念を説明し、今日の生物医学的な痛み理解の基礎を作った。彼が『人間論』の中で解説した著名な図式は次のようなものである。足元に火を感じてそれを避けようとする作用は、まず炎の"微粒子"が足の皮膚に動きを生じさせ、それが脊髄にそった敏感な紐を引張り、脳室の手前の"ベル"が鳴る。これが、脳室の壁を開くことになり、"動物精気"が管状の神経に流れ込み、足を引くという反射がみられる。動物精気はまた脳室から松果体に入り意識を引き起こすという。なぜなら、彼によると松果体は人間にとっての"意識の座"であるからだ。またデカルトは、痛みは情動の一種であり、人間以外の動物には精神がないので、痛みを感じることはないとまで述べている。他� ��、スピノザは、情緒としての痛みをとらえ、悲嘆と憂鬱を痛みがもつある種の特性としてとらえている。したがって痛みを全体論的な情緒としてとらえるアリストテレス的伝統はデカルトよりもスピノザのほうに生き残ったかのようである。

2012年6月2日土曜日

ニューヨークのオプショナルツアー・観光を予約。 現地発信-日通ペリカントラベルネット ニューヨーク


ニューヨークからお届けします現地発のオプショナルツアー・観光予約情報。
現地に日本人がいるから安心のサポート。
現地在住スタッフがいるからこその最新情報やお得情報などを随時更新中!
あなたの海外旅行の不安を解消いたします。

< 選択された項目 >   全て

下車満載のニューヨーク1日観光

USD 80~

今一番人気のマンハッタンの見所を贅沢に網羅した1日観光です。ニューヨークの思い出・・・・

[ニューヨーク発]  終日  7時間30分

世界の中心地ニューヨークは数え切れないほどの見所があります。 最近人気のミートパッキングディストリクトやハイラインパークを加え 短時・・・・

   アレンジ:不可    グループ割引:なし     ガイド:日本語      詳細を見る >>

欲張りニューヨーク3大夜景ツアー

USD 70~

多くの2大夜景ツアーと違い、ペリカンは特別な3大夜景ツアー! 眠らない街ニューヨ・・・・

[ニューヨーク発]  夜  約4時間

映画のシーンに入ってしまったようなニューヨーク3大夜景眺望ツアーです。有名なエンパイア・ステート・ビル展望台からの夜景、ブルックリン橋のたも・・・・

   アレンジ:不可    グループ割引:なし     ガイド:日本語      詳細を見る >>

ニューヨーク半日市内観光(午後)

USD 65~

マンハッタンの見所を半日で観光するダイジェスト版!・・・・

[ニューヨーク]  午後  3時間

マンハッタンの見所を午後半日で観光するダイジェスト版! 数々の主要ポイントを車窓からご覧頂き、一部下車観光も含みますので、時間の限られている・・・・

   アレンジ:不可    グループ割引:なし     ガイド:日本語      詳細を見る >>

歩いて体感! 自由の女神とブルックリン橋

USD 105~

ニューヨーク人気観光スポットをガイドと一緒に歩きながら訪ねる安心のマンハッタン体・・・・

[ニューヨーク発]  午前  5時間

2012年6月1日金曜日

English Teacher Going On Ultimate Field Trip, To Iran (Creeping Sharia) « Education News & APP


via Teachers going on ultimate field trip | Cincinnati.com | cincinnati.com. Ten local teachers will embark this summer on the adventures of their lives in exotic locations around the world – all in the name of education. The Cincinnati Public Schools teachers won travel grants from the Fund for Teachers, a Houston-based, donor-supported group that [...

2012年5月19日土曜日

ハロウィン - Wikipedia


ハロウィン、あるいはハロウィーンHalloween, Hallowe'en)は、ヨーロッパを起源とする民族行事で、毎年10月31日の晩に行われる。ケルト人の行う収穫感謝祭が、他民族の間にも行事として浸透していったものとされている。由来と歴史的経緯からアングロ・サクソン系諸国で盛大に行われる。

ケルト人は、自然崇拝からケルト系キリスト教を経てカトリックへと改宗していった。カトリックでは11月1日を諸聖人の日(万聖節)としているが、この行事はその前晩にあたることから、後に諸聖人の日の旧称"All Hallows"のeve(前夜祭)、Hallowseveが訛って、Halloweenと呼ばれるようになった。そもそもキリスト教の教えと、魑魅魍魎が跋扈するハロウィンの世界は相容れるものではなく、聖と俗との習合がハロウィンという名称のみに痕跡を残している。

ケルト人の1年の終りは10月31日で、この夜は死者の霊が家族を訪ねたり、精霊や魔女が出てくると信じられていた。これらから身を守るために仮面を被り、魔除けの焚き火を焚いていた。601年にローマ教皇・グレゴリウス1世が宣教師にケルト人へキリスト教改宗の策として、「ケルト人の信仰法である木の伐採は行わずに、木の真上にはキリストの神様がいてそのために木を信仰し続けなさいと広めなさい」と言ったのが今のハロウィンになったきっかけでもある[要出典]

これに因み、31日の夜、カボチャ(本来はカブ。スコットランドではカブの一種の「スィード (swede) 」を用いる[1]。)をくりぬいた中に蝋燭を立てて「ジャック・オー・ランタン (Jack-o'-lantern) 」を作り、魔女やお化けに仮装した子供達が近くの家を1軒ずつ訪ねては「トリック・オア・トリート(Trick or treat. ご馳走をくれないと悪戯するよ)」と唱える。家庭では、カボチャの菓子を作り、子供たちは貰ったお菓子を持ち寄り、ハロウィン・パーティーを開いたりする。お菓子がもらえなかった場合は報復の悪戯をしてもよい。

現代では主にアイルランド、イギリス、アメリカ、カナダ、プエルトリコ、ニュージーランド、シーランド、そしてオーストラリアの一部に広まっている。これらの国ではハロウィンが盛大に開かれるが、プロテスタント信徒が多いせいもあって、その翌日にあたる諸聖人の日には通常、これといった行事は催されない。宗教改革以降、プロテスタント諸国ではカトリック教会の祭日である諸聖人の日が徐々に廃れたため、ハロウィンのみが残された格好になっている。

アメリカの一部の学校では、ハロウィンがキリスト教由来の行事ではないことから、「ハロウィンを行わないように」という通達が出されることがある[2]

2012年5月17日木曜日

4章 1節 (2)世界の様々なくらし


ここから本文

世界は広くて、いろんな食べ物や遊びがあります。みんな違うように見えるけれども、よく見てみると・・・日本と同じ?日本と違う?

このほかにも日本と似ている外国の習慣やものを探してみましょう。

お米の食べ方

タイとフィリピンの写真は、『国際協力』誌2001年3月号より


子どもの遊び方

※子どもの遊び方の写真4点および解説はすべて(特活)開発教育協会提供


世界の風景

広大な自然、伝統的な街並み、高層ビル街など、私たちは世界のそれぞれの場所で、同じ時間を過ごしているのです。


世界の生活

日常生活の様子が、国によってどのように違うのでしょうか。
気がついたことを発表してみましょう。

2012年5月16日水曜日

政治における「権謀術数」(アメリカの黒人解放の歴史) - 闇の図書館・美術館 - Yahoo!ブログ


○政治における「権謀術数」(アメリカの黒人解放の歴史)

 

 

 アメリカ合衆国は「民主主義国家・他民族国家」であり、多くの民族が溢れている。しかし20世紀までは、「黒人差別を平然と行う名前だけの『民主主義国家』」であった。そんな「黒人に対する人種差別」と戦った勇気あるアメリカ人を三人紹介。ただし、一人は白人の「偽物」。二人は黒人の「本物」。

 

 

その1.「偽物の黒人解放者」エイブラハム・リンカーン大統領

 

 

 

 

 なぜ、リンカーン大統領が「偽物の黒人解放者」なのか不思議に思う人もいるかもしれない。世界史の授業で、リンカーンは『奴隷解放宣言』を出して「黒人奴隷を解放」し、「人民の人民による人民のための政治」という名台詞を残した「偉大な人物」として紹介されたことを覚えている人もいるだろう。が、実のところ、彼は「黒人奴隷の解放」などやっていない。

 

 大統領リンカーンの時代にアメリカが北部・南部に分裂した「南北戦争」が起こったことは有名だ。黒人奴隷の解放を主張する「北部」とそれに反対する「南部」との戦いは、大統領リンカーンの活躍によって「北部」が勝利する。だが『奴隷解放宣言』が出された後、「黒人への差別」が消えた訳ではない。その理由を知るには「南北戦争」の正体に迫るのが近道だろう。

 

「アメリカの南部の経済」は「黒人奴隷」を働かせて大量の「綿花」を栽培させ、イギリスに輸出することで成り立っていた。これに対して「アメリカの北部の経済」では「産業革命」が起こり、「工場で働く多くの労働者」を必要としていた。

 

 そこで「北部」の有力者たちが目をつけたのが「南部の黒人奴隷」であった。「北部」の人間の本音は「黒人を北部へと移住させ、北部の工場で働かせる」ことである。ただし、障害があった。「黒人」たちは「奴隷」であり、「南部の奴隷の持ち主」から離れて北部へ移住することはできない。そのため「北部」の有力者たちは「黒人たちを奴隷にするのは人の道に反している」と人情に訴えた。この考えに賛同し、民間レベルで「黒人解放」のために努力した人々はいた。

 

 しかし「北部」の人間たちにとって「黒人奴隷の解放」など「どうでも良かった」のである。「南部から黒人を奪い、北部で働かせる」ことこそ彼らの本当の目的なのだから。そしてリンカーンは「北部」の代表者であるため、「偽物の黒人解放者」にならざるを得なかった。

 

2012年5月14日月曜日

ムスリムが豚肉を食べない医学的理由


慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において

 

はじめに

聖クルアーンでは、次のように述べられています。

 信仰する者よ、われがあなたがたに与えた良いものを食べなさい。そしてアッラーに感謝しなさい。もしあなたがたが本当にかれに仕えるのであるならば。かれがあなたがたに、(食べることを)禁じられるものは、死肉、血、豚肉、およびアッラー以外(の名)で供えられたものである。だが故意に違反せず、また法を越えず必要に迫られた場合は罪にはならない。アッラーは寛容にして慈悲深い方であられる。

(第2章172-173節)

 あなたがたに禁じられたものは、死肉、(流れる)血、豚肉、アッラー以外の名を唱え(殺され)たもの、絞め殺されたもの、打ち殺されたもの、墜死したもの、角で突き殺されたもの、野獣が食い残したもの、(ただしこの種のものでも)あなたがたがその止めを刺したものは別である。また石壇に犠牲とされたもの、くじで分配されたものである。

(第5章3節)

 言ってやるがいい。「わたしに啓示されたものには、食べたいのに食べることを禁じられたものはない。ただ死肉、流れ出る血、豚肉 -  それは不浄である -  とアッラー以外の名が唱えられたものは除かれる。だが止むを得ず、また違犯の意思なく法を越えないものは、本当にあなたの主は、寛容にして慈悲深くあられる。」

(第6章145節)

 かれはただ死肉、血そして豚肉、並びにアッラー以外の名が唱えられ(屠殺され)たものを禁じられる。だが欲望のためだけではなく、法を越えず、迫られて止むを得ない者には、本当にアッラーは寛容にして慈悲深くあられる。

(第16章115節)

 至高偉大なるアッラーは、死肉、血、そして豚肉を不浄であるとし、食べることを禁じられました。アッラーは万物の創造主であり、ムスリムは唯一アッラーだけが立法者であると信じています。人間の視野や知識は非常に限られていますが、アッラーのそれは広く深く限りなく、アッラーはあらゆるものの内と外を知っています。光り輝く外観は人間を迷わすことができますが、アッラーはその下に隠されているものをも知っています。人間の創造主であるアッラーは人間にとって善いものと悪いものを最もよくご存知であり、主であるアッラーのみが命令の権限をもっています。ですからムスリムはアッラーの命じられたものに従い、アッラーの禁止されたものを避けるのです。

アッラーが人間に豚肉を禁じられたのは、それを避けることが人間にとって善いからです。そして現在、科学の進歩に伴い、豚肉を避けることによって得られる善のいくつかが分かりはじめました。

ここでは豚肉を禁じられたアッラーの英知の一部について、医学的見地からの報告を紹介します。

 

ムスリムが豚肉を食べない医学的理由

 私たちの健康は食べ物や飲み物一つで非常に違ってきます。ですからイスラームが私たちの食べ物や飲み物の摂取に関して教え指導しているのは当然のことといえるでしょう。イスラームは健康で健全な人間社会を築いていこうとしていますから、イスラームが精神的健康とともに肉体的健康にも多大な関心を払うのは驚くにあたりません。イスラームは私たちが安心して食べることができる食べ物について詳しく教えています。

さてイスラームは豚肉の摂取を禁じていますが、それは肉体的健康の維持と関係があります。人間の精神的な状態を高める上で肉体的清潔さと精神の浄化は必要不可欠なものです。イスラームでは肉体的、精神的浄化を礼拝(SALAT)、アッラーの名の唱道(ZIKR)、それに決められた宗教的義務などを通じて行います。そしてこれらのことをきちんと行うには人間の純粋な心を育てていかなくてはなりませんが、そのためには私たちが毎日摂る飲食物に注意を払う必要があるのです。

純粋な心も悪い習慣も私たちの育ち方や教育、生活環境に左右されます。イスラームは純粋で清い心を育て、悪い習慣から自分自身を遠ざけるにはどうしたらいいかを教えてくれます。

2012年5月13日日曜日

Mrs. Nakao's Home Page


 癒しの体験を持っている人は、おおぜいいると思います。私も何度か、主からの癒しをいだだきましたが、今日はその証ではなくて、癒しに関して私が見たり聞いたり、教えられたり、考えたりしたことについて、話してみたいと思います。

 私たちの信じている神様は、全能の方ですから、癒す力をもっておられます。私たちを創られた神様は、私たちを癒すことができるのです。

 イエス様が、荒れ狂う海の波をお静めになったことが、聖書に書いてありますが、それは、イエス様が自然界の主であられることの証明でもあると思います。自然界、時間、空間、そして万物の主であられる神は、人間の体の主でもあられるのです。

 それに、神様は私たちを愛し、私たちのことを顧みてくださっているので、私たちを癒すことを、よしとしてくださるのだと思います。ただ、その神様の癒しは、ワンパターンではなくて、多様なのです。

 聖書の中でも、イエス様が人を癒された方法は、いろいろであることが解かります。旧約聖書にも、癒しの記事がありますがやはり一様ではありません。

 現代でも、牧師や癒しの賜物を持っている人に、祈ってもらって癒された、という人もありますし、自分で一所懸命祈って癒された、という人もあります。また、教会でみんなが心をあわせて祈り続けたので、多くの人の祈りが積まれて、癒されることもよくあります。

 癒しには、神様の聖手による直接的なものもあり、医者や、薬や、健康法といった、何らかの媒介による間接的な癒しもあると思います。イエス様は、最も力ある癒し主ですが、医学を肯定しておられます。「丈夫な人には医者は要らない、要るのは、病人である」といって、医者の必要を認めておられます。

 また、「ルカの福音書」と「使徒の働き」を書いたのは、ギリシャ人の医者ルカでした。「医者」という、科学的見地からものを見る立場にある人が、神の直接的な癒し、つまり奇跡を記していることは、聖書に書いてあることが、実際に起こったこと、まやかしや作り話でなく、まちがいなく事実であるということの、大きな証明であるといえると思います。

2012年5月11日金曜日

「おそれがない」ことが「明らかなとき」を判断するためのガイドライン


  大量破壊兵器等の開発等に用いられる「おそれがない」ことが「明らかなとき」には、許可申請は不要となります。
   このガイドラインは、この「明らかなとき」を判断するためのものです。輸出者や提供者は、このガイドラインに基づいて輸出や提供の厳正な社内審査を行うことが推奨されています。

 

 

 輸出者等は、「明らかなとき」を判断するに当たり、以下に掲げる事項(ただし、輸出する貨物等の用途並びに取引の条件及び態様からあてはまらない事項は除く。)を確認すること。

 

 輸出者等は、通常の商慣習の範囲で取引相手等から入手した文書その他の情報によって確認を行うこととし、入手した文書その他の情報のうち自らにとって都合の悪いものに対し目隠しをしないこと。

 

2012年5月10日木曜日

福音の史的展開 3


福音の史的展開 3

福音の史的展開 16

はじめに

 本章では「使徒後時代における福音の進展」を扱っていますが、前節でパウロ名書簡によって、エーゲ海地域の異邦人諸集会におけるパウロ以後の福音の進展と、その質の微妙な変化を見ました。それに続いて本節では、エーゲ海地域と深い関わりにあった帝都ローマの共同体の成立と、使徒以後の時期におけるローマ共同体とエーゲ海地域諸集会との関わりを見ることになります。

 この時期にはローマ帝国社会におけるキリスト者への迫害が目立つようになり、迫害の中でキリスト信仰を堅持するように励ます文書が書かれるようになります。ペトロ第一書簡やヘブライ書が典型です。両書ともローマとの関わりが深く、この時期に成立した使徒名書簡としての性格をもつ文書です。なお、ローマ帝国による迫害に対抗する代表的文書としては、ヨハネ黙示録があります。これは使徒名書簡ではありませんが、この時期における福音の進展を扱うさい、ローマ帝国との関連で欠かすことはできませんので、ここで取り扱います。

 

  T ローマにおけるキリスト者共同体

 

ローマのユダヤ人

 一世紀にはローマ帝国の首都ローマにも多くのユダヤ人が住んでいました。そのことは、ルカも使徒言行録の最後の章で伝えています。パウロが皇帝の裁判を受けるためにローマに護送されてきたとき、パウロはローマ在住のユダヤ人の代表者たちと接触し(二八・一七)、数日後には大勢のユダヤ人と会合をもって(二八・二三)、自分の信仰と立場を弁証しています。また、その少し前に書かれたローマの人たちへの手紙(ローマ書)においても、ローマの共同体がユダヤ人と異邦人の両方のグループがあることが証言されており(一四・一〜一五・一三)、最後の挨拶(一六章)でも多くのユダヤ人の名があげられています。福音が伝えられる前にユダヤ人の共同体があったことが、ローマのキリスト者共同体の成立に重要な前� ��となっているので、まずローマにおけるユダヤ人共同体の実態を見ておきましょう。

 地中海世界東部の諸都市には、捕囚以後の早い時期からディアスポラ・ユダヤ人の共同体があり、パレスチナに近いアンティオキアやアレクサンドリアなどの大都市には大きなユダヤ人共同体があったのに較べ、西部へのユダヤ人の移住は比較的遅く、ローマがユダヤ人共同体の存在が確認される最初の都市になります。

 文献上でユダヤ人とローマの接触が最初に確認されるのは、前二世紀半ばにマカベヤ家のユダがローマに使節を送りローマと同盟関係を結び、その同盟が彼の後継者ヨナタンとシモンによって遣わされた使節によって更新された時(マカバイT八・一七〜三二、一二・一〜四、一四・二四)が最初です。他にローマ側の文献では、ティベリウス帝時代のローマの歴史家マキシムスが前一三九年の出来事の記録として、ペレグリヌスというローマ市の役人がユダヤ人を(カルディア人や占星術師らと共に)ローマから追放したという記事を書いています。その追放の理由は、ユダヤ人が「ユピテル・サバツィウスの祭儀」というローマの風習に反する祭儀を持ち込んだからだとしています。この祭儀の名については様々な説明がされていま すが、「ヤハウェ・ツァバオス」(万軍の主)のローマ側の呼び方とする見方や、サバス(安息日)を特色とするユダヤ教の祭儀を指すローマ側の名と見る説が有力です。断片的な記事ながら、前二世紀の後半には、勃興期のローマとハスモン朝時代のユダヤ人の交流が始まり、ローマにユダヤ人が在住し始めていたことがうかがわれます。

 歴史的に確実なのは、ハスモン王朝の後継争いに乗じて介入したポンペイウスが前六三年にパレスチナとエルサレムを征服し、多くの戦争捕虜のユダヤ人を奴隷としてローマに強制移住させた出来事です。彼らの多くは間もなく解放され、テベレ川西岸地区に定住し、人口も増し加わっていきます。前五九年にエルサレム神殿に関わる事件でキケロが公開の場で彼の仲間を弁護する演説をしたとき、多くのユダヤ人が押し寄せたことことが伝えられています。この演説で、キケロはユダヤ人を「野蛮な迷信」に従う愚かな群衆として非難していますが、それはその後に続くローマ人のユダヤ人に対する反感をよく代弁しています。前一世紀には、ローマのユダヤ人が改宗者を得ようとして熱心に活動していることが、ローマ側の文書に� ��現るようになります。

 ヘロデ大王はカエサルと友好関係を結び、カエサルからユダヤ人に好意的な多くの布告を得ていました(ヨセフス『古代史』一四巻一八五以下参照)。この布告はコンスタンティヌス帝に至るまで実質的には保持されたようです。この布告により、ユダヤ人は三つの主要な特権を与えられました。第一は集会と礼拝の完全な自由、第二は兵役の免除、第三は独自の法廷をもつ権利です。ユダヤ教は帝国の「レリギオ・リキタ」(合法宗教)として公認され、帝国のユダヤ人はみな国家の宗教祭儀への参加を免除されました。

 しかし、ローマ社会には、ローマ古来の伝統に反するユダヤ人の宗教習慣には反発する気風が強く、ローマの政策も寛容と弾圧の間を揺れ動きます。初代の皇帝アウグストゥスはユダヤ人に対して比較的寛容であったようですが、次のティベリウス帝(在位一四〜三七年)は厳しく扱い、一九年に武器を取れるユダヤ人青年男性多数をサルディニアの戦場に送って、ユダヤ人共同体に打撃を与えたとされています。

 クラウディウス帝(在位四一〜五四年)がユダヤ人をローマから追放したことが伝えられています。スエトニウスはその著『皇帝伝』のクラウディウスの事跡を記した箇所で、「彼はクレストゥスの扇動によって絶えず騒乱を起こすユダヤ人をローマから追放した」と書いています。これは四九年のこととされています。ところが、同じくローマの歴史家ディオ・カッシウスは、クラウディウスはユダヤ人の集会を禁止しただけだと伝えています。この二つの記事は共に事実であって、おそらく騒乱を抑えるために集会を禁止したが、効果がなかったので追放に進んだという二段階の措置を指していると見られます。この追放令の結果コリントに移住してきていたアキラ・プリスキラ夫妻と、五〇年にコリントに到着したパウロが出会� ��ことになります(一八・二)。

  •   この二つの記事を調和させるために、追放は騒乱の当事者だけであり、使徒言行録一八・二の「すべてのユダヤ人をローマから退去させた」はルカの誇張だと見る説もありますが、二段階と見て、ルカの記事は事実を伝えているとするのが順当でしょう。

 クラウディウスの後を継いだネロ(在位五四〜六八年)はユダヤ人追放令を解き、ユダヤ人に対して比較的好意的な態度をとります。これは寵妃ポッピアがユダヤ教に帰依する「神を畏れる者」であったので(ヨセフス)、その影響と見られます。ユダヤ人歴史家のヨセフスは、この皇妃の庇護の下で活動し、「ユダヤ戦記」などを著述しています。

 ネロの時代に始まったユダヤ戦争は、七〇年のエルサレム陥落と神殿の崩壊を頂点として七三年に終結します。ネロの次のヴェスパシアヌス帝(在位六九〜七九年)は、ユダヤ戦争を指揮した将軍であり、戦後ユダヤ人に対して厳しい姿勢で臨みます。彼は「ユダヤ金庫」を創設、それまでエルサレム神殿に納めていた年二ドラクマの神殿税をユピテル・カピトリヌス神殿に納めるように命じます。このユダヤ人にとって屈辱的な税金は、ドミティアヌス帝によって極めて厳しく取り立てられるようになります。

  •      「ユダヤ金庫」については、『天旅』二〇一〇年2号34頁を参照してください。

 ローマのユダヤ人共同体の規模について最初に現れる証言は、前四年のヘロデ大王の死にさいしてパレスチナのユダヤ人がアウグストゥス帝に送った請願の使節団を、ローマのユダヤ人八〇〇〇人が出迎えて随行したというヨセフスの記事です(古代誌)。この頃すでにローマのユダヤ人在住者はかなりの規模になっていたことがうかがえます。一九年にティベリウスがサルディニアに送った青年男子は四〇〇〇人と記録されていますので、その家族や親族を含めますと、パウロの時代のローマのユダヤ人人口はほぼ二万人規模であったと推計されます。ローマ市の人口は約一〇〇万(あるいは八〇万人)と推定されていますので、ユダヤ人 はローマ人口の約二パーセントを占めていたことになります。この数はユダヤ戦争以後にさらに増えたと考えられます。ヨセフスの「ユダヤ戦記」によると、戦後に一〇万人のユダヤ人が安い価格で奴隷に売られたと報告されており、その中のかなりの部分がローマに来たと推定されるからです。

 ローマのユダヤ人は、アレクサンドリアのユダヤ人とは対照的に、一つの共同体を形成していませんでした。アレクサンドリアでは、五つの市区の中の二つをユダヤ人が占め、《エスナルケー》(民族の長)と呼ばれる一人の指導者の下に《ポリテウマ》と呼ばれる単一の自治共同体を形成していたのに対し、ローマではそのような単一の組織はなく、《シュナゴゲー》と呼ばれる複数のユダヤ人共同体がローマの各地に散在して活動していました。この場合の《シュナゴゲー》は礼拝のための会堂を指すのではなく、それぞれのユダヤ人共同体を指し、それぞれの地区や保護者の名前で呼ばれていました。その中でテベレ川西岸地区の《シュナゴゲー》はもっとも古く、アラム語を使う人たちであったからか、「ヘブライ人の《シュ� ��ゴゲー》」と呼ばれていました。現在では十一の《シュナゴゲー》の存在が確認されていますが、その中の五つはパウロのローマ到着以前に存在していたと見られています。

 それぞれの《シュナゴゲー》は「長老会議」《ゲルーシア》によって統制されていました。この「長老会議」は《シュナゴゲー》共同体の宗教的、法律的、財政的運営を司り、《ゲルーシアルク》と呼ばれるその議長が《シュナゴゲー》共同体を代表することになります。その下に、《グラマテウス》(律法の専門家)とか、礼拝を司会する《アルキシュナゴーゴス》(会堂司)とか、各種の基金を集める係とか、聖具を保管する係などがいたようです。

 ローマのユダヤ人共同体はその生活と集会でギリシア語を用いていました。これは当時のディアスポラ・ユダヤ人として自然なことですが、政府の公用語であったラテン語ではなく、当時広く地中海世界の庶民の共通語であったギリシア語を用いていたことは、ユダヤ人の間で生まれ育ったローマのキリスト者共同体がギリシア語を用いる共同体となり、パウロが母語のギリシア語で語りかけることができる共同体であり、広くエーゲ海地域の共同体と交流を深めることができる共同体となる基盤となります。

 ローマのユダヤ人は、その歴史が他のヘレニズム世界の大都市と較べて若いせいか、商業活動で資産をなした者や都市の有力者として活動した者は記録されておらず、カタコウム(地下墓地)の墓碑などからすると、奴隷をはじめ比較的貧しい階層に属するものが多かったようです。
 ローマのユダヤ人共同体の特色は、アレクサンドリアのユダヤ人共同体のように一つの組織をもった共同体を形成せず、多くの《シュナゴゲー》共同体が個別に活動していたことです。この事実は、ローマに形成されたキリスト者共同体の在り方に大きく影響します。

 

ローマにおけるキリスト者共同体の形成

 ローマにいつ誰によって福音が伝えられたのかは確認できません。異邦人への使徒パウロは、帝国の首都ローマに福音をもたらすことを熱烈に志していましたが果たすことはできず(ローマ一・九〜一三)、五六年にコリントからローマの人たちに手紙(ローマ書)を書いたときには、すでにローマには小規模ながらキリスト者の共同体が存在していました。ローマ書は、この時期(五〇年代半ば)におけるローマのキリスト者共同体に関するもっとも重要な証言であり資料です。

 先に見たように、クラウディウス帝は四九年に「クレストゥスの扇動によって絶えず騒乱を起こすユダヤ人をローマから追放した」とローマの歴史家によって記録されていますが、この「クレストゥス」は明らかに《クリストス》の不正確な表記ですから、四九年にはローマのユダヤ人の間にキリストの福音が伝えられ、キリスト信仰をめぐってユダヤ人の間に論争と騒乱が起こっていたことが確認できます。そうすると、三〇年のイエスの十字架・復活の出来事の後二〇年足らずの間に、少なくともローマのユダヤ人にはキリストの福音が伝えられ、信じる者の活動が始まっていたことが分かります。

 このことは、ディアスポラ・ユダヤ人と聖都エルサレムとの密接な交流からすれば、当然のこととして理解できます。とくに、エルサレムには「リベルテン(解放された者)の会堂」があり(六・九)、ローマから来住している解放された奴隷のユダヤ人が多数いたのですから、エルサレムで起こったイエスの十字架と復活の出来事と、それを告知する使徒たちの働きを体験した者が、イエスをメシア・キリストとする信仰をローマのユダヤ人共同体に伝えたことは当然です。

  •  最初期にイエスをメシア・キリストとする信仰をローマに伝えたユダヤ人の名は伝えられていませんが、ローマのユダヤ人共同体《シュナゴゲー》の成員でエルサレムに巡礼した人たちがその信仰をローマにもたらしたことも推察されます。エルサレムまたはパレスチナの無名の信者たちによってローマに伝えられた可能性もあります。ローマ書一六章七節のアンドロニコとユニア(おそらく夫妻)も、そのようなユダヤ人の伝道者であった可能性があります。この二人は、パウロより先にキリストを信じる者となっており、「使徒たちの中で目立った」働きをし、パウロと一緒に投獄されたこともある先輩使徒として紹介されています。
     
         ここは新共同訳を含め多くの訳で「アンドロニコとユニアス」と訳され、二人の男性とされていますが、原文では対格の「ユニアン」は、ユニアスという男性ではなくユニアという女性であることが、P・ランペの詳しい研究によって確認されています。この点について詳しくは、左記の文献を参照してください。
         K.P.Donfried, edt. " THE ROMANS DEBATE "  p.223

 ローマでキリスト信仰の証のために活動したユダヤ人の中でもっとも目立つのは、アキラ・プリスキラ夫妻です。この夫妻の名が最初に登場するのは、四九年のクラウディウス帝によるローマからのユダヤ人追放令によってローマからコリントに来て、そこでパウロに会ったときです(一八・二)。夫妻はパウロと会ってすぐに協力して福音を伝える働きをしているのですから、ローマですでにキリスト者であったことは明らかです。そうするとキリストをめぐるローマのユダヤ人の間での論争と騒乱の当事者であったことになります。アキラとプリスキラが証言するキリストをめぐって、ユダヤ人からの激しい反対があり、その論争が騒乱にまで発展したのでしょう。おそらく、ローマ総督によって十字架刑にされた イエスがイスラエルに約束されたメシアであると信じることに対する反対だけでなく、イエスを信じるユダヤ人たちのモーセ律法に対する軽視が論争の的となったのではないかと推察されます。アキラ・プリスキラ夫妻は、すぐ後にパウロと意気投合して活動している事実から、パウロ的な律法から自由なキリスト信仰を主張したと見られます。

 アキラは「ポントス州出身のユダヤ人」と紹介されています(一八・二)。ポントス州に福音が伝えられるのはずっと後のことですから、アキラはローマに出てきて福音に接し、信仰に入ったものと見られます。プリスキラ(短縮形のプリスカと呼ばれることも多い)との結婚もおそらくローマに来てからのことでしょう。プリスキラという名は奴隷にはなく、そこそこの富裕な家柄の女性であったと推察され、夫妻の名があげられるとき、「プリスキラとアキラ」と、テント職人のアキラよりも先になるのはそのためであると見る人もいます。もっともこの順序はプリスキラの方が福音活動において主導的であったからだとする説が有力です。

  •      アキラ・プリスキラ夫妻がかなりの規模のテント製造業者であり、パウロを世話したり、集会をすることができる家をもつことができる富裕層の夫妻であったとする説もありますが(ヘンゲルも)、これは確認できません。むしろ、多くの記事が普通のテント職人であることを示唆しています。

 パウロがコリントに一年半滞在した後、エルサレムに向かって出発したとき、アキラ・プリスキラ夫妻も同行してエフェソまで来ます。パウロがそこからさらに船を乗り継いでエルサレムに向かったとき、夫妻はエフェソに残り、このアジア州の州都エフェソで福音活動を進めます(一八・一八〜二八)。パウロがエルサレムでの使命(使徒たちとの会議?)を終えて、内陸の高地地方を通ってエフェソに戻ってきて活動を始� �たとき、アキラ・プリスキラ夫妻はすでに自分の家で集会をして活動しています(コリントT一六・一九)。パウロはローマ書(一六・四)の挨拶で、この二人を「わたしの命のために首を差し出してくれた」人たちと呼んでいます。これはおそらくエフェソでの騒乱でパウロが危機に陥ったときに、この二人が自分の命の危険を顧みずにパウロを助けたことを指していると見られます。

 クラウディウスが亡くなってネロが後を継いだとき(五四年)、ローマからのユダヤ人追放令は廃止され、アキラ・プリスキラ夫妻はローマに戻ります。パウロが五六年にローマ書を書き送ったとき、夫妻はローマにいます(ローマ一六・三〜五)。この五年に及ぶユダヤ人追放令はローマのキリスト者共同体に大きな変化をもたらします。

 四九年の追放令までは、ローマのキリスト者はおもに各ユダヤ人共同体《シュナゴゲー》の中のユダヤ人信者と、《シュナゴゲー》の礼拝に参加していた異邦人の「神を敬う者」であり、《シュナゴゲー》の中にいました。ユダヤ人がローマから追放されていなくなった後では、異邦人信者は《シュナゴゲー》とは別に集会を形成せざるをえなくなります。しかし、それまで各《シュナゴゲー》にいたキリスト者は、《シュナゴゲー》から離れても別々の共同体を形成し、一つの組織体とはならなかったようです。ここで、ローマのユダヤ人共同体が単一の組織体ではなく、複数の《シュナゴゲー》共同体に別れていたことが、ローマのキリスト者共同体の在り方に影響を及ぼしていることが見られます。

 「レリギオ・リキタ」(合法宗教)として様々な特権を認められているユダヤ教の庇(ひさし)を失った異邦人信者の共同体は、東方の宗教や習慣に対する周囲のローマ市民の反感を避けて、秘かに小さな集会をして信仰を維持したのではないかと想像されます。追放令が廃止されてユダヤ人信者がローマに戻ってきたとき、すでに形成されている異邦人信者の共同体との関係が問題になります。ローマに戻ってきたユダヤ人は当然元の共同体《シュナゴゲー》を形成したことでしょう。そのさい、別に形成されていた異邦人信者の共同体とどういう形で関わったのかが問題となります。パウロはこの時期のローマの人たちに手紙を書いてこの問題に触れていますので、この問題は次項(U)で扱うことにします。

 ネロ(在位五四〜六八年)の時代に、ローマのキリスト者共同体には衝撃的な事件が起こります。ネロはローマの大火の責任を、周囲のローマ市民から反感をもって見られていたキリスト教徒に負わせ、多数の信者を処刑します(六四年)。これは、それまでユダヤ教徒の一部として扱われていたキリスト教徒が、当局によってユダヤ教徒とは別の教徒として扱われるようになったことを意味します。この区別は、ユダヤ教に傾倒していた皇妃ポッピアの影響によると見られます。このネロの時代の後半に、パウロもペトロもローマで殉教します。ネロの時代は、ユダヤ教徒には有利な時代でしたが、ローマのキリスト者共同体には過酷な時代となります。

 

  U ローマの共同体とローマ書

 

「ローマ書を最初に受け取った人びと」

 パウロは、二年余りのエフェソでの福音活動を終え、マケドニア州とアカイア州の諸集会を訪れて献金を集め、それを届けるためにエルサレムに行こうとして、コリントで船便を待っています(五五年から五六年にかけての冬、ネロ時代の初期)。そのエルサレムでの使命を果たした後、宿願のローマ訪問を果たし、ローマの人びとに送られてイスパニア(スペイン)にまで福音を携えて行こうとして、ローマの人びとあてに手紙を書きます(ローマ一五・二二〜二九)。それがローマ書です。ローマ書はパウロが告知したキリストの福音をもっとも包括的に提示する文書として、新約聖書の中でも最も重要な文書の一つであり、その内容の研究は山をなしていますが、同時にその時点でのローマのキリスト者共同体の様子を証言する� ��料でもあります。ここでは、ローマ書によってそれを受け取ったローマの共同体の様子を見てみたいと思います。

  •    ローマ書が送られてきた時のローマの共同体の様子については、水垣渉氏の『ローマ書を最初に受け取った人びと』という、ユニークで優れた論稿がありますので(『天旅』二〇〇七年3号所収)、それをそのまま紹介したいのですが、紙数の都合でできません。それで、その論文から教えられた内容の要点を紹介して、この時期のローマの共同体の実情を描くことにします。

  最初の2世紀間、ローマのキリスト者は市内の別々の場所に分かれて集会をもっており、全員が集まる中央の集会所はありませんでした。それで、パウロはローマの人たちに手紙を書くとき、宛先として(コリント書簡TとUのように)「ローマにある神の《エクレーシア》へ」と書くことはできませんでした。パウロは「神に愛され、召されて� ��なる者となったローマの人たち一同へ」と書いています(ローマ一・七)。《エクレーシア》という語は、プリスカとアキラの家に集まる集会を指すときだけに出てきます(ローマ一六・五)。本体部分(一〜一五章)には出てきません。

 パウロは書簡の最後(一六・三〜一六)で、ローマにいる知人たちに挨拶を送っています。そこに出てくる人名とグループから、当時のローマのキリスト者共同体の実態を垣間見ることができます。ここにあげられている28人の個人の中、アリストブロとナルキソはキリスト者ではないので、26人がキリスト者であり、その中の24人の名前が挙げられています。その26人のキリスト者の中の9人は女性で、男性は17人です(七節のユニアを女性と数えて)。各人に添えられている賛辞からすると、女性の方に福音のために協力し苦労した人が多いようです。

 名前の由来や頻度から自由人か奴隷出身者かがある程度判明します。研究者によると、名前のデータがとれる13人中、三分の二以上が奴隷出身、すなわち解放奴隷であり、ローマのキリスト者は東方出身者が多く、たいていローマ市民ではない属州民であったとされます。

 一六章にはローマで活動していたいくつかの集会やグループがあげられています。1アキラとプリスカの家の集会(五節)、2アリストブロ家の人びと(一〇節)、3ナルキソ家の信者たち(一一節)、4アシンクリトらのグループ(一四節)、5フィロロゴらのグループ(一五節)の五つがあげられていますが、他の14人がすべて同一のグループとは考えにくいので、少なくと他に二つのグループがあり、後のパウロ自身のグループ(二八・三〇〜三一)を入れると八つのグループがあったことになります。

 各グループは名前をあげられている人の他に数人または十数人いたとすると、八グループの人数は30人から140人の間となりますが、ローマのキリスト者の総数は、コリント集会とほぼ同じ程度の50人前後と推定してよいのではないかと考えられます。

 このようなグループはどこで集会をしたのでしょうか。それはおもに「インスラ」の借家で行われていたと見られます。「インスラ」(島という意味の語)というのは、数階建ての集合住宅で、各家は街路に通じる階段から直接入れました。現代の公団住宅のようなものですが、四階まではセメントですが五階以上は木で造られていました。貴族や富裕階層は一戸建ての邸宅(ドムス)に住んでいましたが、大多数の民衆は一部屋または数部屋のインスラの住居に住みました。狭い市域に当時で(推定で)八〇万人ほどが住んでいたので、人口密度は平均的な日本の現代都市と較べると四倍以上になり、庶民は採光も悪く下水設備もない非衛生な住居にひしめくように住んでいたことになります。

 コリントでは、パウロ一行とコリントの共同体全体を世話することができる邸宅(ドムス)を持つガイオの家に集まっていましたが(ローマ一六・二三)、ローマでは小さなグループごとにこのようなインスラの部屋に集まっていたと推察されます。使徒パウロから送られてきた手紙(ローマ書)は、このような部屋に集まる小さい集会に次々に回されて朗読され、聴く者はアーメンと応えてパウロの告知する福音の言葉によって神を賛美したことでしょう。

 ローマ書はけっして冷徹な神学論議ではなく、パウロがその生涯をかけて告知してきた福音の全身全霊をかけた告白であり、それにふさわしい高揚した文体で書かれています。パウロの高揚した魂から迸り出る言葉の口述筆記で書かれたこの手紙は、それが朗読されるのを聴く者にも、魂の高揚を呼び起こします。現代のわれわれはローマ書のこのような性格を理解し、「パウロの肉声による福音書」(水垣)として受け取ることが重要です。

  •     以上は水垣先生の論稿『ローマ書を最初に受け取った人びと』の不十分な要約ですが、この論稿の最後の「どのように読まれたか」は、ローマ書という文書の性格を理解する上できわめて重要な示唆であり、ローマ書の解釈に変革を迫るものと考えられます。


「強い者」と「弱い者」

 パウロはローマ書において、他の手紙と同じように、まずはじめに(一章から一一章で)福音の真理を提示して、その後で福音にふさわしく歩むように実際的な勧告を行っています。ローマ書では一二章から一五章でその勧告がなされていますが、前半の一二章と一三章でキリスト者としての生き方の一般的な勧告をした後、一四章からローマの共同体に特有の問題を取り上げています。その特有の問題とは「強い者」と「弱い者」の対立であり、それによってローマの共同体の中に生じている裂け目の問題です。パウロはこの箇所(一四・一〜一五・一三)で、なんとかしてこの対立を克服して、ローマの共同体が主にあって裂け目のない交わりを形成するように、心を砕き、言葉を尽くして勧告しています。

 ローマの共同体にこのような対立があることを、パウロはおそらくアキラ・プリスキラ夫妻のようなローマ在住の同志からの手紙などで聞いていたのでしょう。自分がローマに行く前に、このような対立が克服されて、温かい交わりの共同体に受け入れられることを願って、このような勧告を書いたと考えられます。その対立は、「確信《ピスティス》の弱い者」(一四・一)と「強い者」(一五・一)の対立です。勧告の内容を見ると、「弱い者」というのは、野菜だけを食べ肉を食べないとか、特定の日に特定の宗教行事をしなければならないと考えている人を指し、「強い人」というのは、何を食べてもよいと考え、日にこだわらないで生活している人を指しています。

2012年5月8日火曜日

BBSログ 2007/12/28 (Fri) 10:22:17-007/12/03


面白いBBS - 寺田祐一牧師

2007/12/28 (Fri) 09:45:16

 仕事も今日までという方も多いのでしょうか。
 近くにある大きな卸売市場も今日までだそうです。
 勿論、それどころではない方もいらっしゃるでしょう(私もそうですが)。
 しかしもう今年も終わりですね。

 このBBSも、今年の2月末から始まったのですから、もう9ヶ月になりました。
 最近は、書き込んでくださる方々が限られて少ないのですが、ヒット数は毎日7、80件はあるようです。
 確か、19730回ぐらいまで行ったのですが、fc2サーバーの障害で、16950回の時点まで戻ってしまいました(その間の書き込みは失われたそうです)。今の時点で、それからでもすでに17780回となっていますから、すでに830回ほどヒットされています。
 加算すると、20560回ぐらいになっていますが(f c2サーバーからカウンター訂正ソフトが届いたら変えます)、よくご覧いただき、投稿していただいたと感謝しています。
 元々教会のサイトですから、そんなにご覧いただけるとは考えてはいませんでしたので、むしろ驚いていたのですが、一時、色々とご協力くださる方々によってかなり賑わったのですが、今は落ち着いて、始める前に私がイメージしていたようなかたちになっています。
 様々なご批判をも含めて(大変勉強にもなりました)、日本のキリスト教会サイトとしては本当によくご覧いただいているほうしょうか。その分責任も大きい‥‥  。
 今も試行錯誤を重ねながらですが、始めた以上、お応えしていこうとがんばっているところです。

 始める前に、これだけはなんとか守ろうと決めていたこ� ��は、見てくださる人がいようといまいと、とにかく続けて行くこと、そのためには毎日何かを書き続けるということでした。
 勿論何でも書けばいいというものではなく、中身が問題しょうが、それでも書き続けること、こうした働きには重要だと考えていたからです。
 しかし、東江さんなどにも助けられてですが、毎日書くというのは、覚悟はしていましたが本当に大変ですね。自分の正体、本性がさらけ出されてしまいます。いつも読みかして恥ずかしい思いをしています。
 ただ、初めから正直に、なるべく本音で書いていこうと考えていましたので、その点で攻撃を受けることもあるのですが、それはそれでいいかなと思っています。
 今日も、何を書こうかと考えながら、ついこんなことを書いてしまいました 。

 しかし、いつも忘れてはいないのは、何とかして神様の恵みをお伝えしたいと言うことです。
 今日の聖書箇所は、詩篇42篇でしたが、有名な詩篇です。

「42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」

 現代に限らず、いつの時代も、人は生きている限り、何かに飢え渇いているようです。美しくも切実な表現ですが、鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、でしょうか。
 この、霊の渇きをうるおしてくださるおかたこそ、イエス様ですが、このサイトを通して(ひとつの方法に過ぎませんが)、お伝え出来ればということです。
 クリスチャンのかたは、ぜひあかしやご意見などをお寄せください。
 今後も何とかがんばって続けていくつもりですので、応援、よろしくお願いします。

子ども会準備 - 東江公人

2007/12/27 (Thu) 17:33:02

いつもの子ども会メンバー2名の女の子 ナギサ と メイ。

今は冬休みに入ったので毎日来るらしい。
今日も来て、土曜日の準備を彼らなりにしていった。
放っておくと子ども会の方向がおかしくなりそうなので明日は何をして欲しいかこちらが準備しておく必要が出てきた。

『年末はゆっくりしよう』と勝手に考えていたが、どうもそうはさせてもらえそうにもない。

明日は説教の準備と土曜子ども会の準備をするこども達のための準備をすることになりそうだ。

師走とはよく言ったものだ。もちろんこういう忙しさはうれしいのだけれど…

主の熱心 - 寺田祐一牧師

2007/12/27 (Thu) 19:05:24

 子どもは、勿論面白いから来るのですが、単に楽しかったり、ものがもらえたりするから来るのでもないようです。それなら、日本の教会だって子どもで溢れているでしょう。
 また、そんな風に集まってみても、ご指摘のとおり、そこに確かなポリシーがなければ、やがて胡散霧消(うさんむしょう)してしまうでしょう。
 きっと、子どもたちを惹きつける何かが、名護の教会には、いや、東江さんご夫妻のお働きにはあるのでしょうね。それは、ひとり一人をきちんと見定め、適切に対応して行くというきめの細かさ、そして熱い思い、何よりも、深い愛を子どもたちが感じているからなのでしょう。
 ご夫妻の手作りなのですね。
 やがてその熱心さが、神様からのものであることを知り、その熱心さ� �ご愛が、子どもたちへも伝わって行くことでしょう。本当によい働きです。

 そんな賜物を、神様が黙っておくはずはありませんから、これからますます忙しくなりそうですね!
 おからだを大切に‥‥ 

 教えられました。
 私も頑張って見ようと思います。

もう来年‥‥  - マルタ

2007/12/27 (Thu) 14:09:04

 寺田牧師先生、東江牧師先生、こんにちは。
 マルタです。
心待ちにしていたクリスマスも過ぎて、今年も残り数日になりました。
 私、マルタは1年が過ぎて行くのが毎年、早いなと感じています。
 『あれっ!まだ、新年のご挨拶をしたばかりじゃ…。』と言う感じです。
 光陰矢の如し…。(言葉の使い方あっているでしょうか?。)今年も、皆、色々な所を通って来たと思いますが、私、マルタも色々な体験・経験をし、思いを持ちました。
 ここ数年、様々な思いが嵐や大波の様に押し寄せてきて、飛ばされたり、流されたりですが、(勝手にそうしているだけかも)そこから色々気付かされ、神様からも沢山教えて頂きました。
 マルタ、来年も(は)立っているべき所に立ちたいと願� �ます。
 今年、途中からこのBBSの部屋に入れさせて頂きましたが、ここでもまた、色々な考え方や言葉を教わりました。マルタ、ただびっくり!するばかりです。寺田牧師先生、東江牧師先生の文中の一言一言に心に響く、はっ!とさせられるものが沢山ありました。
 ずっと以前の出来事の様子や、教会学校の様子も文字が映像となって見えて来る書き方に、マルタもこんな風に書けたらと強く思わされた次第です。それには、もっと見聞を広めないと…ですね?。
 それ以前に神様に私の全てが向いていなければ…かな?。
 来年も寺田牧師先生、東江牧師先生もお忙しい日々が続くと思いますが、神様が何時も共にいて下さり、力づけて下さいますようにとお祈りしております。
 来年もどうぞ宜しくお願い致し� �す。

立派な文章  - 寺田祐一牧師

2007/12/27 (Thu) 18:49:26

 マルタさんの文章と知識はとても立派です。
 その書き込みにはいつも励まされております。
 勿論、勉強や知識、見聞には広げすぎることはありませんから、ぜひかなってください!
 きっと、ますます文章にも磨きがかかることでしょう・
 来年が楽しみです!

 東江さんの文章はとても立派ですが、私はまだまだで、このサイトで今一生懸命練習中といったところです。
 おかしなところがあったら、どんどんご指摘ください。
 よろしくお願いします。

明日を守りイエス様 - Grace

2007/12/27 (Thu) 08:22:11

 明日を守りイエス様。
 素敵ですね。
 先生方、いつもありがとうございます。
 なんだか、私への返信をしてくださり涙が出るほど嬉しく思います。
 クリスマスが良い思い出で子供たちに残ることはいいことですね。

 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

 これは、私が毛嫌いした言葉でした。
 救われる前、父に、私は救われている。と激怒したことを今涙を流しながら思い出します。
 私はかえられました。
 イエス様を信じることはすばらしいですね。

時にかなって美しい - 寺田祐一牧師

2007/12/27 (Thu) 18:44:16

時にかなって美しい NEW / 寺田祐一牧師 引用
 ええ、喜んでくださるなら、たくさん返信しましょう!

 聖書のみことばって、とても不思議で、私たちの勝手や思い通りにはなりません。
 ある時には大きな慰めや励ましになりますが、強い反発や怒りすら覚えさせることもあります。
 しかしそれは、単に私たちの受け止め方であって、聖書のみことばの価値とは違うようです。
 ダイヤモンドは、誰がどう鑑定しようと、誰が持とうと、そのダイヤモンドの価値はなんの関係もないのと同じです。
 でもそれは普遍的ですから、いつかは必ず、その驚くべき価値に気付かされる時があるのです。

 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

 このみことばは、どれほど多くの人々に攻撃され、またその通りの みわざを現して来たことでしょうか。
 本物の価値が分かるためには、随分と時間がかかるものです。
 その間、よくできた偽物にごまかされることが多くあるでしょう。
 私もずいぶん惑わされたものですが(今も油断するとすぐにそうなります。危ない危ない)、しかし、その度にみことばの深さと確かさに触れる機会としていただいています。
  
 まさしく「神のなさることは、時にかなって美しい」ことに気付かされるのです。
 よかったですね!

振り返りつつ前を見る - 寺田祐一牧師

2007/12/27 (Thu) 08:13:11

 今年はまだ終わっていませんが、クリスマスの余韻もあまり残っていないような、お正月が待ち遠しいといったこともなく、ただ毎日があわただしく過ぎて行くといった感じです(私もそうですが、むしろ世相が‥‥ )。
 来年というより、もう来週どうするかが気になります。本当に忙しい時代なのだと思います。
 ぐずぐずしていなくても、簡単に取り残されてしまいます。
 その流れに乗っていくかどうかは、自分の人生ですから、人にとやかく言われる筋合いはなく、自分で選択すればよいのですが、その選択基準をどこに置くのかは、もう一度確認しておくことは無駄ではないかも知れません。365日、切れ目や節目、一段落を許さず先へ先へと駆り立てられる現代、暮れの何日か、新年の初めぐら� ��は、少し立ち止まって思いを巡らせて見るのもいいでしょう。貧乏暇なしや自転車操業とはまったく質の違う忙しさです。
 その中で生きているので分かりにくいのですが、分かってはいても逃れるのは難しいのです。
 まるでネズミの大行進で、よく見える目は、空気が読めない結果にもなりそうです。
 勿論、クリスチャンであろうと例外ではありませんが、教会は例外であるべきかも知れません。

 旧約聖書によると、ノアは40年もかけて巨大な船を造りました。
 箱船と言われているものです。社会的に考えるなら、まったく無駄なものでした。
 結局、大洪水が訪れ、この箱船に乗ったノアの家族と地上の生き物は助かるのですが、その箱船を造り続けている40年間は、人々の嘲笑の的であり、空気 の読めない愚か者家族そのものでした。
 その間、ノアはどうだったのか分かりませんが、少なくとも家族は、「お父さん、人がなんて言っているか知っていますか。もう止めましょうよ」と、色々悩んだのではと推測します。本当に難しいところです。
 2000年の間、ご存じのように、教会は様々な状況に置かれて来ました。時代をリードし、人々が、こぞってつめかけるということばかりではなかったわけです。
 現在でも、教会が焼き払われたり、壊されたりする地域もあります。
 日本でも、直接そのような攻撃はありませんが(キリシタン禁制時代は具体的でした)、目に見えない圧力は相当なもので、教会がなかなか繁栄しない姿を見て、こうあるべき、あああるべきという攻撃もまた、教会内外からも後� �絶ちません。
 そんな中、どうして行くべきか、悩まないリーダーはいません。うまく出来る牧師も、なかなかうまくいかない牧師もいるでしょう(リーダーは必ずしも牧師だけとは限りませんが)。
 しかし、それにもかかわらず、いつの時代、地域においても、流れとは関係なく教会はあったのです(惑わされたことも度々でしたが)。
 それをどう守り表現していくのか、ゆっくり振りかえて見る時は必要ですね。
 東江さんの教会学校の話題は、その意味においてもタイムリーです。
 年末年始は、いつの時代においても、そうした機会としてはふさわしいと思うのですが、いかがでしょうか。
 少なくとも聖書はそう言っているのですが、イエス様が私に、いや教会に願っておられることはなんだろうかと ‥‥  。

 教会も、勿論時代の流れからは自由ではありません。
 しかし、それに支配されているわけではありません。いや、されたはいけない‥‥ 
 むしろ、滔々と流れる人の歴史の傍らにあって、それに惑わされず、じっと見続けて行く役割があります。カトリックとは(ローマ・カトリックではない)、パーマネント、まさしくそうした普遍を意味する名称だったのです。
 少なくとも、時代に適応出来ない、空気がよく読めない私にとっては、唯一身を避けることの出来る場所あり、そこで生きて行くことの出来るところです。でなければ、どこへ行けばよいのでしょう。
 それを子どもたちに伝へ、悩んでいる方々の避けどころであることは確かです。

  41:1 幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。

 今朝の詩篇の1節でした。

キャロリング - エキストラ

2007/12/24 (Mon) 11:44:54

教会ではクリスマス本番真っ只中・・・ですね!

キャロリング・・・以前、自分も参加した事があります。冬の野外ライヴは寒いですが、観客が足を止めて人だかりが出来ると、結構いい気分になって盛り上がりますよね。
独りで楽器を抱えての路上ライヴの勇気はありませんが、仲間と街角で・・・これは予想以上に熱くなりました。

柄にもなく一瞬懐かしい想いに耽ってしまった・・・

Re: キャロリング - 寺田祐一牧師

2007/12/25 (Tue) 16:44:47

 昨日、教会のクリスマスのプログラムはすべて終えて、今日は少し静かなクリスマスを過ごしています。
 今、今年最後の、絵の時間が終わったところです。

 エキストラさんも、ただのエキストラではなく、教会へいらしていたんですね。
 昨日はどちらかにいらっしゃいましたか。
 またぜひ、キャロリングをなさってみてください。
 
 よいクリスマスを‥‥ 。

Re: キャロリング - エキストラ

2007/12/26 (Wed) 10:55:40

懐かしいと言えば、学生時代にあまり意味も考えずに仲間に誘われて、クリスマスに教会へ。
ただし、楽器を抱えてあちこちキャロリング・・・学生だからギャラも掛からない、美味しい手作りケーキを頂戴して結構満足してました。

未だに、放浪の音鳴らしをしてるのは、そこが起源なのかな・・・。

所で、先日遂にそちらの友人に「エキストラ」がバレてしまい・・・久しぶりの電話で「エキストラさんのお宅でしょうか?」・・・一瞬沈黙!・・・続いて爆笑!

素性がバレルと何だか照れくさい・・・書き込み辛いと思う折も折に、年明けから関西方面での仕事が決まり、長期遠征する事になりました。
冷やかし半分に首を突っ込み、お邪魔しました。
・・・というか、牧師さんたちを冷やかし� ��・・・天罰降らないか・・・不安を抱きつつ・・・旅支度。

牧師さん、皆さん、よい年をお迎えください!

おあいこ様 - 寺田祐一牧師

2007/12/27 (Thu) 07:54:04

 ああ、さすらいのイカス寅さんですね。
 
 これほど背景と個性がむんむんしていれば、ご存じの方なら分からないほうがおかしいでしょう。
 勿論、私はまったく分かりませんが、この年になってはもう無理ですが、私の理想とする生き方ですよ。
 多分、本当は宣教師のほうが向いているのかも知れません。

 ところで、エキストラさんがなさるという演奏は何ですか?
 くち三味線?(ああ、大変失礼しました)

 私もまた十分楽しませていただきましたので、おあいこ様ですよ。

 よいお年を。

日本の伝道 - 寺田祐一牧師

2007/12/26 (Wed) 08:19:43

 お早うございます。

 今日もあたり一面の霜が降りて、大分寒い冬の朝となりました。
 冬ですね!

 東江さんの教会学校のお話は大変興味深いものです。
 今、日本の教会で、この教会学校に困っていない教会はないでしょう。
 何でも例外はあるでしょうが、残念ながら、教会学校が縮小されたり閉鎖されてしうところも多いのです。
 そんな中、東江さんの働きは貴重です。
 私たちの教会も、それなりに頑張っていると思うのですが、なかなか思うようには子どもたちも来てはくれません。
 勿論、理由も様々でしょうが、東江さんの言うとおり、ちらしや看板などでは、子どもたちは来ません。
 仮に来たとしても、親からすぐにストップがかかってしまい(今の時代、この気持 ちも分からないではありません)、子どもひとりでは来られません。親が連れてくれば別ですが、日曜日にわざわざそうする親はいないようです。
 また、新しい子どもが来ても、別に意地悪しているわけでもないのに、最初のうちはどうしてもその中に入りにくいものです。勿論大人が色々と配慮をするのですが、その大人、或いは先生がいなくなると難しいのです。
クリスチャン・ホームの子どもたちでさえ馴染むのには相当時間がかかるものです。
 新しい子どもが来て、教会に定着するには、そこにどうしても親しく出来る友だちが不可欠です。
 つまり、今来ている子どもたちが友だちを連れてきて、すぐに一緒に教会で遊べないと難しいようです。
 これは多分大人も同じで、日本における伝道の基本なのだ と、私は思っています。
 大人にしろ子どもにしろ、キリスト教用語で言えば、「個人伝道」といったところでしょう。
  
 子どもの場合、もう一つの点は、すでにクリスチャンである親に連れられて来るのが一番多いのですが、親がなかなか子どもを連れて来られない、信仰を伝えられないという点もあるようです。
 日本では、切支丹禁制が解かれてすでに150年にもなるのですが、未だに一代目のクリスチャンの方々がほとんどなのです。せっかくの信仰が、残念ながら継承されず、ご自分一代で終わってしまうのですね。
 日本のクリスチャンはだらしがないと、ひと言で片付けてしまうことは簡単ですが、これにも様々な背景があって、一概には言えず、時間のかかることだと思っています。
 ただ、� ��書のみことば「主イエスを信じなさい。そうすればあなたとあなたの家族が救われます」とあるとおり、信仰は家族単位のものであり、親が子どもに伝えて行くべきものですから、如何に難しくても、これを忘れないでいることが、日本では大事です。
 つい、難しさから「子どもには子どもの考え、人生があるのだから」と、いいわけをしてしまうことも多いからです。現実を見て、無理は出来ないと、今は私も分かりますが、こころの痛みをなくしてはいけません。

 また、クリスチャン・ホームで、子どもたちを教会へ連れて来るとき、親通しの関係が非常に大事になって来ます。親通しの関係が悪いと、子ども通しの関係も、子どもたちの意志に関係なく悪くなります。日本の教会は人数が少ないので、ほんのちょっと� �たことが、実に大きな影響力を持ってしまいます。
 「互いに愛し合いなさい」というヨハネのことばは、実に意味深いものだと、足りない牧師としては、しみじみ思わされているところです。

 基本的に、日本では、子どもが子どもを、そして大人も自分の知り合いを、「個人伝道」によって連れて来る以外に方法はないと考えています。
 大きな、派手な、特別な方法、集会は、否定するのではありませんが、残念ながら効果はなかったのです。

 東江さんのおっしゃる通りだと思います。
 来年は、もう一度腰を据えて、この問題に取り組み、祈って行きたいと考えています。
 そのためにこそ、今私は、いいえ、日本の教会、そして教会学校もあるのでしょう。

Re: 日本の伝道 - 東江公人

2007/12/26 (Wed) 14:12:31

こども達は時間の観念がまだ確立していないので時間通りには来ません。子ども会に来て良かった場合、そのことが他のこどもに伝えられて後で来る場合も多くあります。
 と言うことで1回の集会で、完結というやり方は我が教会では、まだできそうにもありません。
基本は、聖書の紙芝居を聞くとお菓子のプレゼントがもらえる。という基本的なルールを守れば、ある程度は大目に見ることにしています。

 今回のゲームは間違い探しゲームをしました。2枚の絵の間違いを探すゲームです。かなり難しく作りましたが、人に教えてもらわないでひとりでやると言うルールにしました。もちろんやめれば賞品はありません。そのため賞品はたいしたものではない物にしています。
ゲームは、大変な方が達成感 があって面白いのです。
今のところ断念した子はいません。むろん小さすぎてできない子はやらせませんが…小学1年の子もやり遂げました。子どもの能力は侮れません。
賞品はゼリー1個とたいしたものではありません。

 子ども会の基本は、自分の意志で選ぶと言うことを強調しています。子どもであっても自分で選ぶと言うことはとても大切なことだと思っているからです。昨日、『紙芝居は聞きたくないから帰る』という子がいました。
 その男の子が今日またやって来て紙芝居を聞いて帰ってゆきました。もちろんプレゼントを獲得して…

 ちょっと大げさに言えば教会の訓練。基本的な決めごとは子どもだからといい加減にしないでおこうと思っています。

心映え - 寺田祐一牧師

2007/12/26 (Wed) 22:20:16

 きちんとした観察とポリシー、実に見上げた心映えです!
 本当に名護ではがんばってこられたのですね!
 きっと、その働きは無駄に終わることはないでしょう。

 不思議は教会の専売特許ですが、無から有を生み出してくださる神様は、必ずお応えくださいます。
 ビジネスから見れば、先の見込みのない日本のキリスト教会ですが、原資は、この不思議な神様です。
 なんだか、来年もがんばりたくなりました。

 ところで、「ちょっと大げさに言えば教会の訓練。基本的な決めごとは子どもだからといい加減にしないでおこうと思っています」は、むしろ大人のクリスチャンにこそ必要かも知れません、 かな。

Re: 日本の伝道 - 東江公人

2007/12/26 (Wed) 22:24:48

一番難しいのが、大人なのかもしれません。
自分なりの生き方が確立してしまっていますから。
聖書の言葉で自分自身を変えてゆくことが最も大変な事業のように思います。

こどもクリスマス - 東江公人

2007/12/25 (Tue) 17:44:03

25日にこどもクリスマスをしました。
会は単純。ゲームをして紙芝居をしてプレゼントをあげてお仕舞い。

 ゲームは聖書の記事を絵にしたものの間違い探しゲームです。7つの間違いがあり、全部見つけたらゼーリー1個がもらえるというゲームです。
 商品はショボイものでしたが、ゲームとなるとこども達は俄然張り切ります。12名ほどのこどもが挑戦しましたが、全員やり通しました。かなり真剣でした。学校もいわゆるお勉強ではなくゲームのような勉強をすればいいのかなー?

 その後で、クリスマスの紙芝居を聞いた子達はお菓子の詰め合わせをもらって意気揚々と引き上げてゆきました。

 こども達の心の中に、教会の楽しいクリスマスの思い出が残るようにと願う一時でした。

こころに残るクリスマス - 寺田祐一牧師

2007/12/25 (Tue) 18:04:52

 なるほど、東江さんのところでは、イブ礼拝を行わず、25日に、子ども中心に行われるのですね。
 やはり目に浮かぶようです。
 昨夜盛り上がったのも、やっぱりyouthのメンバーが考えてくれたオリジナルクイズが中心だったのです。
 聖書に関すること、地元(吉川)に関すること、子ども、一般と、とても楽しく計画されていました。
 おみやげは、私たちの教会では毎年持ち寄りのプレゼント交換をしますので(500円ぐらいのもの)、もう少しよいかも知れませんが、これもまた子ども中心になりますね。
 
 名護における東江さんの、子どもたちを中心とした教会形成が伺えて勉強になります。
 きっと、子どもたちのこころに残るクリスマスだったでしょう。
 大切なことです� ��!

Re: こどもクリスマス - 東江公人

2007/12/25 (Tue) 18:35:12

今、名護の教会にとってこども達はとても大切な位置を占めています。
基本的にはこちらから宣伝は行っていません。ですからこども用のチラシはあまり作ったことはありません。看板はさすがに作らないとなーと思っているところです。こども掲示板と言う板を教会の玄関のピロティーニ置いてあってそれで連絡をしているぐらいです。

こども達が楽しい良いと思って友人を連れてくるようです。友達の輪と言ったところでしょうか。

まだまだ、試行錯誤の状況でどうなることやら…
 

Re: こどもクリスマス - 東江公人

2007/12/25 (Tue) 18:53:09

 こどもがこどもの友を連れてくる方法はなかなか有効ではないかと思っています。
 チラシなどで案内をする場合、お互い仲の悪い子達もやって来ます。そして子ども会の中で対立がはじまり雰囲気が悪くなり会が魅力を失ってきます。「お互いに愛し愛し合いなさい」と言う状況にはまだまだならないのですから、最初から友人が友人を連れて来るという方法はいいのじゃないかと思っているのです。

 他のこども達に来て貰いたいときは時間帯などをずらすようにしています。また小学生上級の子達は男の子と女の子は対立的な関係にありますので、別々に子ども会を持つように…などと色々気を遣ってはいるのです。

姉のともだち - Grace

2007/12/25 (Tue) 16:34:48

おはようございます。

今日はクリスマス。昨日は、すばらしい日を教会で過ごすことができました。
夜は少し、心が弾んでか、あまり眠れませんでした。
またその夜はこの御ことばに励まされました。

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいますマタイ28」

話は変わり、今朝も、私の姉の友達にあいました。
 ひとつ上ですが、亡き姉を忍んで、この間、私は不在ですが、うちに線香をあげにきてました。
 その方は小さいときからピアノが上手な方で、電車の中で、家族の話などしていて、また昨日はどう過ごしたのかという話になりました。
 私は教会でという話になり、私は、「教会に好きなピアニストかいるけど、ぜひ来て下さって、弾いて下さい。」と伝� ��ましたら「必ず行くよ。約束ね。」と握手をかわしました。
 どうか、これを読まれた方、ともに祈ってください。
 良いときに彼女がきてくださいますように。
 お願いします。

本当に! - 寺田祐一牧師

2007/12/25 (Tue) 17:42:35

 本当にそうでしたね!
 私も少し興奮してあまりよく寝られませんでした。

 私は「 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。マタイ6:34 」というみことばを、改めて思い起こしていましたよ。
 

 明日は どんな日か 私は知らない
 晴れか 嵐か 曇りになるか
 だけど私は心配しない イエスが私と ともにいるから

 明日は 私には わからないけど 
 明日を守られる イエスがおられる

                            「あすを守られるイエス様」

 以前、うちの教会で歌ったゴスペルですが、不思議に思い出してしまいました。
 いにしえの聖徒たちは、きっとこんな思いで福音を携え、歩んで行ったのでしょうね。

 お姉さんのお友だち、きっと来てるでしょう。
 祈ります!

共に祈りましょう - マルタ

2007/12/25 (Tue) 17:48:13

 今日は。
 マルタです。

 Graceさんの書き込み読ませて頂きました。亡きお姉様のお友達と現在も関わりが続いているのは、良いですね。
 そのシーンを想像していたら、とても寒い今日も、暖かな気持ちになりました。神様を信じている者たちは、家族を初め、皆が神様と出会ってもらえたらと願いますよね。
 私、マルタも何時もお祈りの中に覚えておきたいと思います。

ぶたのしっぽ - 東江公人

2007/12/25 (Tue) 17:10:16

 小学校の4年生の頃。1ヶ月ぐらい入院をしなくてはなりませんでした。大事をとっての入院でしたので体はどこも痛くはなく、毎日退屈な日々でした。
 
 こどもはおらず大人ばかりでした。ある日2才ぐら年下の女の子が入院してきました。それで自然に二人で遊ぶようになりました。
たっぷりある時間を遊ぶことで紛らわせたといっていいかもしれません。
 その中で、たぶん彼女が考え出したのでしょう。「豚のしっぽ」と言う遊びがありました。 それは単純なゲームです。色々と一方が質問をするのですが、片方は「豚のしっぽ」と必ず答えなければならないゲームでした。
 例えば…
 「あなたの好きな物は?」 「豚のしっぽ。」
「へーそんなのが好きなんだ。」
「じゃあ、ポケ ットに入っている物は何?」 「豚のしっぽ」

と言った、たわいのないゲームでした。ずっと前のことなのですが不思議と覚えているのです。

 じつは、最近それを思い出しすことがありました。
私たちの教会では、クリスマス祝会の時にめいめいが、1品を持ち寄って愛餐会の時を持ちます。僕と家内は「おでん」を作るために買い物に出かけました。その時に豚のしっぽが売られていたのです。

 沖縄では、おでんには豚足(てびち)はよく入れます。でもさすがに豚のしっぽは珍しいのです。

それで少しおもしろ半分に豚のしっぽおでんを作ろうと僕が、提案をしたのです。

愛餐会の時、皆が豚のしっぽおでんを食べているのを見ながら、昔の豚のしっぽゲームを思い出しながら「にやり」としながら楽 しい食事会の時を持ったのでした。

 そう言えば、クリスチャンと言う呼び名もアンテオケと言う教会でいつもイエスさまのお弟子達が、「イエスさま、イエスさま」と言うので周りの人に「あの人達はキリストさんだ」と言われ、自分たちの方でもクリスチャンと言うようになったようです。

 豚のしっぽを思い出しながら、私たちもいつもイエス様と叫びつつ歩んでゆく者に…と思った時でした。

沖縄のおでん - 寺田祐一牧師

2007/12/25 (Tue) 17:24:32

 ふーん、豚のしっぽか‥‥ 。
 どんな味がするのでしょう。
 一度食べて見たい気もします。

 でも、何だか楽しそうな雰囲気が伝わって来る愛餐会風景です。
 沖縄でもおでんはあるんですか。
 中にはなにが入っているんだろう‥‥ 。
 ゴーヤとか‥‥ 。

 来年はやはり、ぜひ調査に行って見なければ‥‥ 、などと考えている食いしん坊の牧師でした。

ただよう恵みのかおり - 寺田祐一牧師

2007/12/25 (Tue) 08:05:07

 「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢のあと」

2012年5月7日月曜日

フォトン・ベルトの真相


3600年
 3600年周期の謎     [INDEX]

 第1章では、世界で起きている天変地異、異常気象、生態系の変化、そして、小惑星のたび重なる飛来といったものを紹介し、検証してみた。その中で、注目すべき新しい情報が出てきた。
 それは、3600年周期で起きる地球の大クラッシュというレポートである。
 フォトン・ベルトは、1万1000年周期で大異変が起こるとされていたが、それよりもはるかに短いサイクルで、私たちの地球はポールシフトや絶滅現象を繰り返しているのである。どうやら、フォトン・ベルトの他にも何かしらの影響がひんぱんにあると考えざるをえない。
 すでに述べたが、地下都市計画もフォトン・ベルト対策という観点からは意味がないのに進行している。� �ォトン・ベルトだけでは説明がつかない事態に出くわしたというしかない。
 いったい私たちの地球は、いまどのような状態を迎えようとしているのか。
 2012年12月22日という日は、やはり最後の審判の時なのか。
 それは回避できるのだろうか。
 私はこれまで世界中の国々を旅してきて、それぞれの国でその国の文化と結びついた予言の数々を聞かされてきた。洋の東西を問わず、この変容の時代において、何かが大きく働きかけていることをそれらの予言から想像できた。時代をひっくり返すような出来事が、予言の中でシンボル的に実に詳しく述べられているのである。
 古代文明のほとんどに今日の情報が残されているという点に、私たちの今と未来が暗示されている気がしてならないのである。地球の最後
 地球の最後を予言した魔女      [INDEX]

 ある予言者を紹介したい。私がもっとも関心と興味を持っている人物である。
 15世紀のイギリスに、マザー・シプトンという女性の予言者がいた。彼女は普通の主婦だったのだが、「魔女狩り」に遭い、火あぶりの刑を受けて殺されてしまうまでの50〜60年の間に、じつにさまざまな予言を世に残した。中世の世界では、彼女のような特殊な知識を持つ女性や、特に神秘について明かす女性は魔女扱いされ、集団狂喜の餌食にされた。マザー・シプトンもそのひとりで、彼女は自分の死まで詳しく予知していたのである。
 彼女は予言を詩として残した。その中にはテレビや潜水艦、電話など、その時代の表現を使 ってではあるが、今日のテクノロジーについてすべてといってよいほど、詳しく予言している。
 では、彼女はどういうふうにして、それが予言できたのだろうか。未来を見るためには、まず時間に対する感覚を変えてしまうのではないかと私は思う。つまり、過去、現在、未来といった直線的な時間は存在しないという観点にならないと、予言できないのではないだろうか。
 つまり、マザー・シプトンは、タイムトラベルをしていたというふうに考えられるのだ。いやむしろ、時間の定義を変えることによって、今、ここに宇宙のすべてが存在するというふうにいったほうがよいかもしれない。
 そして、「すべてが融合する一点」(マージング・ポイント)に立ち会ったであろうマザー・シプトンは、人類の最後を予言し� ��いる。そこには「非常に大きな規模でのカタストロフが訪れる」と書かれているのである。
 それはいつ訪れるのだろうか?
 残念ながら彼女の予言でははっきりしてはいないのだが、流れをつかむことはできる。そこにはテレビらしきものが現れて、世界の王が戦争を引き起こし、そしてその後に、天にドラゴンが現れると書かれてある。また、データファイル8をご覧いただければ、そのドラゴンが通過するときに地球上の人間の記憶が消えるとか、大変な地変が引き起こされるなどと書かれてある。その後にはドラゴンは再び現れるとも言っている。ドラゴンは二度も地球を通過する。そしてその二度目が人類にとって最後の試練となると、文献には残っているのである。
マヤ、アステカ
 マヤ� ��アステカ、インカ族に伝わる2012年     [INDEX]

 実はそういう内容に似た予言は、中南米の古代文明であるアステカやマヤ、インカにも残されているし、アメリカ・インディアンのホピ族にもある。
 マヤ文明は紀元前1500年頃に興り、820年頃には急激に衰退した文明である。
 マヤ文明は天文学と数学が非常に発展していた。天体の動きに注目し、非常に正確に観測していた。
 彼らは2万5640年を大きな歴史のサイクルとして考える「ロングカウント・カレンダー」を持っている。そしてそれを5つに分け(1サイクルは5128年)、現在は最後の5つ目のサイクルとなっている。また、5つ目のサイクルのスタートは紀元前3113年、終わりが2012年12月22� �となっている。
(中略)
 いっぽう、アステカ文明にも同じようなカレンダーが残されている。多くの研究者がこのカレンダーと天文学のデータなどと対比したところ、過去の出来事や現代の出来事と驚くほど一致していることから、特に最近になって、未来の予言ではないかと注目されているものである。
 彼らもマヤと同様、地球の歴史を5つの時代に分けている。第一の時代は土、第二の時代は風、第三の時代は火、第四の時代は水によって滅び、そして現在われわれが住んでいる第五の時代は、カレンダーによると「火山の大爆発、食糧危機、大地震によって終わる」と記されているという。
 そして気になる滅亡の日付だが、それもやはり2012年12月22日(23日という説もある)というのだ。
 さ� �にインカ文明に目を向けてみると、古代インカ族の子孫がケロ族として現存している。アメリカの人類学の研究家ジョージ・ウィルコックはケロ族のシャーマンのもとで長期間トレーニングを受けた。その彼女が著書の中で、「ケロ族の予言では、世界を"父の時代""息子の時代""精霊の時代"の3つに分けている」とし、さらに「精霊の時代は1990〜93年の間に始まり2012年に終わる」と述べている。
 ここでも、フォトン・ベルト突入の時期とされる2012年がクローズアップされる。こうした符合はいったい何を意味するのだろうか。
終末の到来
 終末の到来はおとぎ話ではなかった     [INDEX]

 私は世界のさまざまな遺跡を訪ねながらいろいろデータを� �めた。そして古代文明に伝わる神話の中には、必ず2つの共通点があることに気づいたのである。
 ひとつは、古代人は暦にとても深い興味を示していて、正確なカレンダーが各々の古代文明において製作されていたということである。もうひとつは、そういったカレンダーを製作するのに必要な、高度な天文学的な知識を有していたことである。
 マヤも、アステカも、インカにしても、ここまで述べてきたように、きわめて詳しくサイクルを区切っていた。そしてそれぞれの時代の間にはブランクがあり、そのブランクはカタストロフ的な時期であると表現されている。
 本章の最後でも紹介するホピ族の予言が、それを一番わかりやすく説明している。例えば第一の世界があって、それが水によって滅び、その次の世界は 火によって滅び、そしてホピ族によると、現代は第四番目の世界であるというのである。そしてこれが最後の世界であると彼らははっきり言っている。
 マヤ族でも、第一、第二、第三、第四、第五世界があるといわれている。そして必ずそれらの世界へ移動する間にカタストロフが起きるといわれている。しかも、現在は五番目の世界、つまり最後のサイクルであり、それが終わるのが2012年12月22日と予言しているのである。
 このようにマヤやホピなどの先史民族が遺したカレンダーの奇妙な符合や、旧約聖書をはじめとする古代の文献に描かれたカタストロフの時期の一致などを考えると、これらのサイクルの最後と関係してくる現象はおとぎ話のようなものではなく、非常に物理的なものであろうと考えられる。

(中略)
世界中に遺された
 世界中に遺された二ビル伝説      [INDEX]

 話を二ビルに戻そう。シュメール神話によると、二ビルは木星とほぼ同じ大きさで、原始太陽系にとつじょ現れた惑星である。天王星と激突し、冥王星の引力を狂わせ、火星と木星にあった惑星ティアマト(フェィトン)を破壊した惑星であり、シュメールではその太陽系の出来事を、神々の戦いとして表し、それを「天界の戦闘」と呼んでいる。
 二ビルはメソポタミア周辺だけで語り継がれた惑星ではない。
 驚くべきことに、紀元前の古代の記録者たちは、謎の天体が地球に大災厄をもたらしたと記録していた。古代の世界では、この同じ星の存在について共通認識があったようである。
� ��中略)
ヨハネの黙示録
 「ヨハネの黙示録」に残された記述     [INDEX]

 ヨハネの黙示録には「天の星は地上に落ちた」「松明(たいまつ)のように燃えている大きな星が天から落ちてきて」「火のように赤い大きな竜」と記されている。
(中略)
「黙示録」は、ヨハネが絶望的な状況の中で啓示を受け、紀元95年頃に著された、地球の最後について描かれた書である。
ファティマ第三の予言
 ファティマ第三の予言と二ビル     [TOP] [INDEX]

 余談ではあるが、聖書で Worm Wood と呼ばれている二ビルを観察するために、バチカンでは数十年前からすでに天文台を設置しているという話がある。彼らは天文学に真剣に取り組んでおり、アリゾナ州にあるマウント・グラハム国際天文台は、バチカン市国によって建設され、彼ら自身で望遠鏡が組み立てられているほどだ。

2012年5月5日土曜日

嫁が受け取っている神託を話そう ただ起きてしまうのを待っているのも何ですのでゴソゴソしておりました


 この丸干し、少しばかりとある修法を朝方終えました。

 修法の種類などは言及出来ませんが、とりあえず旧正月の無事を祈りたいので
指を加えて待つという芸当が出来ない丸干しが勝手に行ってしまったわけです。

 見えない聞こえない判らない丸干しですので、効き目があるのかどうなのかは定かではないのですが、私一人がジタバタしているわけではなく、日本全国で数多い方々が災害は起きて欲しくないと念じられているわけです、警戒は必要ですが出来ることなら被害は少なく、起きないならば更に良しと考えています。

2012年5月4日金曜日

真実の道 − クリスマス、それは悪魔の欺き


 

ああ、待ちに待った喜びいっぱいの"祝日(ホリデー)"、クリスマス。世界はほかのどんな行事よりもクリスマスを待ち望んでいるように見えます。遠くから帰省して家族や友人が集まれる年に一度のとき。財布の紐(ひも)がゆるんで、いつもより寛大な気持ちになるとき。雇い主たちは普段より少しゆったりとして、スタッフには寛大に、日ごろの感謝をプレゼントやボーナスなどで表現します。個人や企業はチャリティで貧しい人たちに寄付をし、人々はギフトや贈り物を贈ったり、電話やパーティーなどであいさつを交わしたりします。また、普段教会に行かない人たちが教会に行くための、年に何度かの機会でもあります。しかし、この祝日(英語でホリデー「holiday」=holy「神聖な」+day「日」)には、残念ながら� ��く「聖なる日」という意味はなく、また神が定めた祝日でもありません。

クリスマスとは、なんて偽ものの神なのでしょう!異端者(不信心者)のための、なんて"聖なる"祝いであることでしょう!そして、いわゆる"クリスチャンたち"にとって、なんてうっとりするようで、なんて大事な、なんて嘘にまみれた祝い!

「クリスチャンでありながら、どうしたらクリスマスを祝わないでいられるのですか?!キリストの誕生を信じないのですか。救い主の誕生を祝うことが、どうしたら間違いになるのですか。もしなにかひとつ、祝う価値があるものがあるとしたら、クリスマスではないのですか。もし神が生まれていなかったら、私たちには希望がありません。あなたは、今までにクリスマス気分を味わったり、クリスマス精神を経験したりしたことがないのですか。他人に施すことを考えないのですか。」このような、クリスマスを祝う理由に関する感情論をよく耳にします。

一見してクリスマスは、最もすばらしく、自分のためではなく周囲の人のための、楽しくて純潔な、さらにはこの世の中で最も信心深い、神の行事のひとつだとみなされています。しかし実際は、道理に反した、変態欲や戦争、犯罪やわいせつが渦巻く、思いつくかぎりほとんどの悪事がはびこった最も邪悪で破壊的な行事のひとつです。その理由をこれから、単なる意見としてではなく、事実と真実によって説明します。そしてその真実というのは、毎日の生活の中の地に足ついた現実からの真実、そして経験からの真実です。人々は、聖書にクリスマスの基盤があるはずだと誤解していますが、人々がそう思って使っている聖書のまさにその一節一節から、神の御前でクリスマスが犯罪であり、その犯罪をそうと知らずに楽しんで犯� ��ていることについて、その真実を説明します。神は、神の民とそうではない人々の両方がクリスマスによって傷つけられているという事実を憎んでおり、そして、神はとても傷ついています。

人は神が愛するものを憎み、人は神の憎むものを愛するということをあなたは知りませんでしたか。神を信じないものが、クリスマスを愛するということはどうでしょう。世界中の人々が邪悪の中に生き、クリスマスを愛しているということはどうでしょう。「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。(ヨハネの手紙一 5章19節)」クリスマスが世界中で人々に尊ばれるものであることが否定できますか。「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。(ルカによる福音書 16章15節)」と書いてありませんでしたか。

クリスマスは元来、清いものでも、いいことでも、聖なるものでもありませんでした。ただこの世の混乱のうちに、不信論者の影響を受け、都合よく加えられたり減らされたりして、商業化されました。むしろそれは異教徒の祝いであり、偶像崇拝であり、迷信であり、悪です。そしていわゆるクリスチャンたちは、クリスマスを自分たちが楽しむための道具として、さらには、神を信じていない人々をその楽しさでキリスト教におびき寄せるための道具として政治的に用いました。

「クリスマス」(Christmas)という言葉は、神からきたものではなく、ローマ・カトリック教会に起源をもちます。カトリック教会の"ミサ"(カトリック教会で聖体拝領と呼ばれる式をミサと呼ぶ。「キリスト(Christ)」と「ミサ(Mass)」から「クリスマス」(「Christ-Mass」→「Christmas」)となった)からきた言葉です。ミサの主な考え方は、いわゆる"全質変化"として知られる奇跡によるもので、牧師が5つの呪文を唱えると、パンとぶどう酒が主イエス・キリストの肉と血に聖変化するという説によるものです。教会員やミサの聖職禄受領者であると名づけられた人々の罪は、生贄として神に供えられます。礼拝の中でそれを受けたい人が前に進み出て、主イエス・キリストの肉と血、つまりパンとぶどう酒を受け取るのです。この ミサは世界中で、毎週日曜日に行われています。ほかの曜日に行うところや、毎日行うところ、さらには一日一回以上行うようなところまであります。私の理解ではミサは、実際に何度も何度も主をはりつけにして苦しめているだけです。単なる記念的な儀式としてではなく、現実に(もちろんそこで物理的にパンとぶどう酒が神の肉と血につながっているというわけではありませんが)生贄として神を犠牲にして傷つけています。キリストのミサ(そして「=クリスマス」も)という名をつけておきながら、やっていることは神を傷つけることだとは、ずいぶんなことです。

カトリック百科事典やブリタニカ百科事典含め、多くの百科事典が、クリスマスはキリスト教初期の頃から、キリスト教に全く起因していないといっています。本当に全く、いつの時代でも、クリスマスは本物のキリスト教信仰に起源をもちません。しかし4世紀頃になって、クリスマスが「キリスト教徒」の祝宴として明らかに取り入れられました。紀元前3000年のエジプトで、オシリス(古代エジプトの幽界の王)とイシス(古代エジプトの豊饒と受胎の女神でオシリスの妻)という異教の神々をあがめている慣習と伝統から、その主要な要素を借りて、'その'行事が「キリスト教徒」のものにすりかえられたのです。あなた自身で歴史を暴きたいという読者の方々のために、あまり細かい事実をここで掘り出してしまうつもりはあ� �ません。インターネットなど、多くの情報源から探し出してみてください。しかしながら、情報のみでは、そこにあるスピリットや真実を知ることはできません。神と神の記したものこそが、あなたに完全な理解を与えます。

自分がクリスチャンだという人がはじめに自問自答しなければならない質問は、1、なぜクリスマスを祝うのか、そして、2、神は私たちにクリスマスを祝って欲しいのか、ということです。聖書の中には、クリスマスを祝うことについて、何ひとつ記述はなく、それをほのめかすような部分さえも存在しません。逆に、神がそれを欲していないということは、多くの部分で読み取ることができます。厳粛な祝いについては書かれていますが、注目してほしいのは、その"厳粛さ"です。お祭り騒ぎではなく、厳粛な祝いが、ユダヤ人が守るべきこととして、神によって命じられたということです。これらの祝いは、それぞれ、私たちにとって神の死であり(過ぎ越しの祭り)、神が私たちに聖霊を与えて私たちが神の中に生き、神が私た� �の中に生きることであり(五旬祭)、神が私たちとともにこの地球上で神の中に満ち、神との統一感があり、神の中に安らいで生きること(仮庵祭)を祝うものです(この3番目の仮庵祭を"神の再臨"を表しているという人もいます)。

2012年5月2日水曜日

ビマ


ã"の項目では、インドネシアの都市について記述しています。ユダヤ教シナゴーグの設備については「ãƒ"ーマー」ã‚'ã"覧ください。

DEWI SHINTA BIMA DEWI SRI
ãƒ"マ (Bima) は、インドネシア西ヌサ・トゥンガラ州、スンバワ島東岸の都市である。人口12万3064人 (2005)。

2012年4月30日月曜日

ラインホルド・ニーバーの祈り - ミシガン便り


長い〜〜〜〜っ!! 
と思っていた夏休みも後約3週間。
娘は今、親友と一緒に5泊6日のキャンプに参加しています。
毎朝、起床後一番に、ドブンとミシガン湖に浸かって目を覚ますらしいです。
寒〜〜〜っ!


(キャンプ場から降りたところにあるビーチ)

でも、冷夏だった7月に比べてようやく夏らしくなり、
キャンプには絶好の天気となってよかったです 

さて、ミシガンの公立校は、レイバーデイ=9月第一月曜日までが夏休み。
今年はなんとそれが9月7日なので、
9月に入ってもまだ1週間は夏休みがあるということに、
最近気づきました 

2012年4月29日日曜日

旧約聖書を楽しむ (パニック発作を紛らわしつつ) - ちょとひとやすみ(パーソナリティ障害& うつ の治療中です)


 今日は一日、家で過ごしました。ゆる〜い日でした。

 何度かパニック発作がおきるので、薬を飲みながら・・・

 一日中、聖書(旧約)を流し読みしてました。

 まず、歴史(真実)があり → 信仰(信じて従う) → 感情

 ってことで・・・

 感情が揺らいでも、歴史を知り、信じていれば、信仰はゆるぎないものに

 なると学んだので〜

 今まで、いろんな人か土地の名前かわからない旧約を逃げていましたが

2012年4月28日土曜日

Costa Rica日記:反骨の扉 Ⅲ... ANTAIOS Blog:So-netブログ


 さて。。。実は遅くなったがおとつい、とっくに使えなくなっている日本のケータイに残っていたアドレスのうち半分くらいに、1周年のメールを送ってみた(←インターネット時間制やから勘弁してな。残りの半分の人はまだ待っててな。あっ、それと最近このblogにコメントくれた人は送ってないよ。笑)
 まあ、さすがにアドレスを変更している連中が多くて、大半は宛先不明?で却ってきたが、早速何人かから返信メールを戴いた(笑)。。。で、その中身なんだが。。。

 驚いたことに出産やら、妊娠やら、結婚やら、そんなメールばっかり。。。(笑)
"この世を儚む我が身にはめでたきこととは思えねど、一言祝辞、陳べ賜うのが世の定め"ってところでしょうか??(笑)
 しっかしホンマ驚くわ。。。最高齢はなんと43才初産!!年の離れた旦那は定年世代のはず(笑←笑ってる場合でもないような。汗っ)。。。それを筆頭に出産ニュースが2件、妊娠ニュースが2件、結婚ニュースが1件という感じ(笑)
 ええいっ!みんなまとめてオメデトー!!と言っといてやるっ!!(笑)ワハハハハハハ(そういや先日の電子妹ご懐妊ニュースもビックリやたな。。。)

 しかしホンマこんな世の中に産んでどうすんねんっ!?って感じるのも事実。。。10年後、20年後の日本の社会情勢は甘くないというのが、常識的な判断。。。

-----------結論部より引用----------------

 モチロンわたしは予言者でもないし、経済学者たちだって予言者という訳じゃない。だから下に書いたようなことが起こらない可能性だってゼロじゃない??。。。だが起こってからでは遅いのだということは紛れもない事実だ。どんな準備が出来るか知らないが、ここに書いたようなことが起こってもおかしくはないし、いや、本来は起こるはずなのだという前提で生きてゆくしか� ��い。覚悟だけはしといた方がいい。覚悟があって何事もそれほど酷くならなければそれでいいし、その時はわたしを罵ってくれて結構だ。わたしは存在していないから気にもしない。。。(笑)

2012年4月26日木曜日

クリスマスの本・ビデオ


クリスマスにこんな本・ビデオはいかが

BGM is "God Rest You Merry, Gentlemen".

クリスマスの時期になると,クリスマスに関係した本を読んだり,映画を見たくなります。せっかくの1年に1回しかないクリスマス,この時期に読んだり見てこそ楽しい本やビデオ(DVD)をどうぞ…


BOOK
VIDEO/DVD

BOOK

花の詩画集 花よりも小さく
星野富弘 著(偕成社)¥1,400

 思い起こしてみると,私がはじめて星野富弘さんの花の詩画を知ったのは,今から15年ほど前のクリスマスに恩師から「四季抄 風の旅」(立風書房)という本をいただいたのがきっかけだった。ご存知の方も多いと思うが,星野さんは「普通の画家」ではない。大学の体育系学科を卒業し,新任の体育教師として中学校に赴任してわずか2か月後にクラブ活動の指導中の落下事故により手足の一切の自由を失った。入院中にキリストの洗礼を受けた星野さんは,故郷である群馬県の東村に帰り,絵筆を口にくわえて絵と詩を書き続けている。
 2003年11月に出版された「花の詩画集 花よりも小さく」は,前作(1999年4月刊)の「花の詩画集 あなたの手のひら」から4年ぶり,星野ファンにとっては本当に待望といって よい新刊である。知らない人が見たら,誰が星野さんの詩画を「口に絵筆をくわえて」描いたものだと思うだろう。一つ一つの花の色,表情はますます豊かに,添えられた詩はいよいよ簡潔にして深い。しかし,1枚1枚の絵と詩に込められた星野さんの思いの深さと肉体的・時間的労力の大きさは,私たちの想像をはるかに超えるものだろう。これは決して読み飛ばす,あるいは単に眺める本ではない。1ページ1ページから星野さんの思いと花の命を感じる本である。
 星野さんの花の詩画は常に私の心の慰めであったし,これからもずっとそうであろう。星野さんの「花の詩画集」はどの国のどの人の心をも打つであろうと信じる。滞英中に花の大好きな隣のPickwickさんに星野さんの花の詩画集の1冊を英訳版をプレゼントしたと� �,彼女が数日後に驚きと喜びの感想を述べてくれたことは今だに嬉しい思い出として残っている。
 本書の表紙を飾る花は「アワコガネギク」である。この花に添えられた詩「花よりも小さくなれ 花の美しさが見える」から本書のタイトルは取られている。クリスマスということにかかわらず,大切な人へのプレゼントとしてこれほどふさわしい本は少ないだろう。星野富弘さんの他の詩画集については別の機会に書きたい。

マローンおばさん
エリナー・ファージョン 作/エドワード・アーディゾーニ 絵(こぐま社)¥1,000

 英国の生んだ20世紀最高の女流児童文学作家の一人,エリナー・ファージョンは,一方で珠玉のような詩"Mrs. Malone"を残した。森のそばの粗末な家に一人で住むマローンおばさんは,寒い冬でもパンや薪の一つもないような貧しい暮らしをしていた。誰もマローンおばさんのことなんか気にかける人はいない。ある月曜日,寒さと飢えに凍えたスズメがおばさんの家にやってきた。おばさんはスズメを胸にだいてやり,「あんたの居場所くらいここにはあるよ」と優しく言うのだった。それから,火曜日にはネコ,水曜日にはキツネの親子,木曜日にはロバ,金曜日にはクマがおばさんに助けを求めてやってくる。そのたびにおばさんは「あんたの居場所くらいここにはあるよ "There's room for another" 」と動物たちを家に暖かく迎えてやるのだった。そして土曜日,マローンおばさんは起きてこなかった。天に召されたマローンおばさんを動物たちは天国に連れて行く。尋ねる門番の聖ペテロに動物たちは言う。「ご存じないのですか,(神さま,お恵みを!) わたしたちのお母さん,マローンおばさんを。 貧しくて なにも持ってはいなかったけれど,広く大きな心で わたしたちに 居場所を与えてくれました」 目をさましてあわてて帰ろうとするマローンおばさんに聖ペテロは最後の場面で言う。「母よ,入って王座のそばへ おゆきなさい。あなたの居場所がここにはありますよ,マローンおばさん "Mother Go in to the Throne. There's room for another One, Mrs. Malone"」。この感動的な物語詩を読んでいつも思い出すのは,新約聖書マタイ伝におけるイエス・キリストの言葉,「心の貧しい人々は,幸いである,天の国はその人たちのものである」,「憐れみ深い人々は,幸いである,その人たちは憐れみを受ける。」,「地に富を積むな,天に富を積め。」,「求めよ,さらば与えられん。」…である。これほどクリスマスにふさわしい慈愛に満ちた詩がまたとあろうか。エリナー・ファージョンの生涯のパートナー,これまた英国の誇る絵本作家エドワード・アーディゾーニの格調高いモノクロの挿絵が一層この小さな本の価値を高めている。

ウェールズのクリスマス
ジェーン&マイケル・マース 著/大貫郁子 訳(径書房)¥1,700

 著者のジェーン・マースはニューヨークに住むアメリカ人であるが,母方の先祖はウェールズ人という家系である。そのジェーンのおばである今は亡きミムの果たせなかった夢,「いつか自分の本当の故郷ウェールズに帰ってクリスマスを迎えたい。」という夢を果たすため,ジェーンと夫のマイケルは,ウェールズの守護聖人セント・ディヴィッドにゆかりの大聖堂がある由緒ある町St David'sでクリスマスを迎える決意をする。この旅には,先祖のルーツを見つけるというもう一つの大事な目的があった。人口1500人という小さな町,St David'sの人々の暖かい歓迎を受けた2人は,友達となったウェールズ人の老婦人たちと食事を楽しんだり,家々を回る地元のコーラスに参加したり,アーサー王ゆかりの史跡を巡ったりと,ウェールズでのクリスマス休暇を満喫する。しかし,肝心のルーツ(親戚)探しに関しては決定的な証拠がないまま暗礁に乗り上げた形になってしまい,楽しさの中でもジェーンの心はどこか晴れなかった。ところがである。親戚かもしれないということで滞在していたB&Bの女主人が,2人のウェールズ滞在最終日になって,しまい込まれていた古い聖書を見つける。聖書には,1885年にアメリカのペンシルバニアでジェーンの大おじさんガーフが生まれたことが記されてあった。宿を営むロイド家とジェーンは正真正銘血のつながった親戚であったの� �ある。本当に「ウェールズの奇跡」が起こったのだ。
 この結末が「出来すぎ」と感じる人にとっても,随所に出てくるウェールズ流のクリスマスの祝い方,つまり独特の習俗,教会のミサ,料理・お菓子などは,とても興味深く楽しいものだろう。文字を持たなかったケルト民族であるウェールズ人は,日本のアイヌと同様,語ることをとりわけ大切にした人たちであるという。だからこそ,クリスマスの晩には皆の前で男たちが詩を朗読する習慣があるらしい。暖炉の前に家族や友人が輪になり,そこで朗読されるウェールズ人の誇り,ディラン・トマスらの詩…。何と暖かなクリスマスの情景だろう。またこの本は,ウェールズ,とくにセント・ディヴィッズを訪れたことのある人にケルトの郷愁を思い起こさせるに違いない。私ももう一度この町を訪れ,町の中心にある古いケル� �十字に触れたくなった。

奇跡への旅 三賢王礼拝物語
ミッシェル・トゥルニエ 著/石田明夫 訳(パロル舎)¥1,500

2012年4月24日火曜日

ミヤンマーのサイクロン アメリカは敵意で支援を阻止: マスコミに載らない海外記事


ミャンマーのサイクロン アメリカは敵意で支援を阻止

サラ・フランウンダーズ

2008年5月15日

Workers World

マスコミのお説教で欠けているのは、ニューオーリンズにおけるハリケーン・カトリーナでの壊滅的なアメリカの実績についての言及だ。

ブッシュ政権はミヤンマーの人々が彼等を襲った自然災害から再起するのを本当に支援しようとしているのだろうか? それならなぜ、この政権は、ペンタゴンが支援を管理すべきだと主張するのだろう? そしてなぜサイクロンが襲おうとしているのが分かっている国に経済制裁を課したのだろう?

今世紀の中で最も激しい暴風雨が、ベンガル湾の低地、隙間なく耕されたミヤンマーのイラワジ・デルタを、5月2日に襲った。そこは肥沃ではあるが低開発地域であり、特に洪水に脆い。デルタにはミヤンマー国民5700万人の四分の一が暮らしている。前回熱帯サイクロンが沿岸地帯の山崩れをひき起こしたのは40年前のことだ。

気象学者たちは、熱帯サイクロンのナルギスを一週間にわたって観測していた。だがサイクロンが上陸すると、予想できない高潮は、最高の規模に達した。高さ3.6メートルの水の壁が、11キロもの内陸まで押し寄せたのだ。

百万人以上の人々が家を失い、何万人もの人々が行方不明になった。推定死者数は、20,000人から100,000人に及ぶ。旧首都で主要商業港湾都市ヤンゴンは修羅場と化した。

アメリカのマスコミは災害の規模と支援活動に対処できない政府の無能さについての話でもちきりだ。アメリカ政府自身の災害支援提供における、計り知れないほど酷い実績は完全に無視されている。

どの新たな記事も、緊急物資運送の為、ミヤンマーに軍隊が自由に入る権利をワシントンが要求していることを繰り返している。ミヤンマーがアメリカ軍航空機の着陸、あるいは海軍艦船の接岸を認めようとしないことに対する怒りと動揺がある。ミヤンマー政府は支援物資を配布する上で信頼を置くことができないという非難が、何度となく繰り返されている。

ブッシュ政権が、犯罪的な計算と計画によって、支援活動を意図的にはるかに困難にしてしまったことは、報道されていないのだ。サイクロン・ナルギスが実際にミヤンマーを襲う前、怪物のような暴風の接近が既に告知され、一週間にわたって観測されてきた中、ジョージ・W・ブッシュ大統領は、ミヤンマーに対する過酷な新レベルの経済制裁に署名した。経済制裁は、侵略行為の一種であり、特に、最も貧しく、最も絶望的なものを標的とする経済戦争の一形式なのだ。

サイクロン襲来に合わせて経済制裁を課した

2012年4月22日日曜日

文芸評論家・加藤弘一の書評ブログ : 2011年04月


→bookwebで購入

 『人類最高の発明アルファベット』を書いたジョン・マンによるグーテンベルクの伝記であるが、おそらく決定版といっていいだろう。富田修二氏の『グーテンベルク聖書の行方』の第二章の伝記と8ページの年譜、高宮利行氏の『グーテンベルクの謎』の略伝部分をあわせ読めば生涯のあらましはたどれたが、中世ドイツの知識のない者はあちこちでつまづいた。

 グーテンベルク家は貴族だったが、われらがヨーハンは母方の祖父が貴族でなかったために貨幣鋳造のギルドにはいれず、その屈辱が発明の原動力となったとされている。しかし貴族がギルドにはいるなどということがあったのだろうか?

 マインツでは貴族と市民の抗争が激化し、市民が虐待の報復として貴族の邸を破壊したのでグーテンベルク家のマインツから避難しなければならなくなったとされているが、貴族が市民を「虐待」とはどういうことか?

 グーテンベルク家のもともとの姓はゲンスフライシュだったが、マインツに「グーテンベルク」という名の邸を手にいれたので、別の家系から手に入れた「ラーデン」とあわせてゲンスフライシュ・ツール・ラーデン・ツム・グーテンベルクと称するようになり、略してグーテンベルクと呼ばれるようになったとあるが、ではゲンスフライシュとグーテンベルクは日本の姓と苗字のような関係なのか?

 われらがヨーハンの聖書刊行プロジェクトに事業家フストが出資したとあるが、15世紀に「事業家」がいたのだろうか? そもそもフストとは何者なのか?

2012年4月21日土曜日

シナイ山麓の聖カタリナ修道院 - My Simple Life


 

 

聖カタリナ修道院 Saint Catherine Monastery は、

エジプト、シナイ山の麓にある峡谷の河口、

シナイ半島に位置するギリシア正教教会の修道院の名称です。

 


1884年、西暦381〜384年頃に書かれたと見られる、

古の手記の断片がイタリアのある図書館で発見されたことで、当時の聖地の

様子やシナイ半島地域の修道院群での修道生活の様が描かれいたのが注目されました。

 

この手記の一片には 「聖なる地」 から書かれた旅行記の一部、

そしてエルサレムにおける復活祭の詳細な叙述が含まれていました。

 

 

手書きの文書はエゲリアという名の女性の手によるもので、

ラテン語で書かれていて、彼女は聖地や、旧約聖書によりモーセが神から十戒を

授かった地とされる、シナイ山やその周辺にある多くの場所を訪れていました。


聖カタリナ修道院は527〜565年の間に皇帝ユスティニアヌス1世の命により

建設され、コンスタンティヌス1世の母親であるコンスタンティノポリスのヘレナが

建設を命じた、「燃える柴」を教会で囲みました。

 

 

この教会の場所はモーセが神の言葉を授かったとされる

2012年4月20日金曜日


 【ドレスデン クルト・レウィン】

 また上の紫霄閣(ししょうかく)サイトには短くドレスデン爆撃はクルト・レウィンが計画立案したとありました。この人物はジョン・コールマン氏によればたタヴィストック研究所の重鎮で300人委員会のキーパーソンです。一般的には「行動心理学」の最初の提唱者と言われています。

------------------------------------------------------------------------------
 

 小渕内閣 経済企画庁長官に起用された 堺屋太一氏の訳本。マリリン・ファーガソン著『アクエリアン革命』という本である(『水瓶座の陰謀』)。内容は 水瓶座の時代を向かえ「透明な知性」をもった人間が無意識のうちに繋がって意識レベルでの革命がこれから起こると言い。そのためには、意識のフレーム(枠組み)を変える必要があるといった内容である。キーワードとして「透明な知性」が用いられている。

 この『アクエリアン革命』はタヴィストック研究所と関連があるようである。米の80年代から90年代のグランドデザインとなった運動の一貫であり、そのものずばりなのだと思う。

 三百人委員会にその関係が述べられている。以下抜粋します。

 三百人委員会(ジョン・コールマン博士著、歴史修正学会訳、徳間書店1994年)から

2012年4月18日水曜日

李登輝 - Wikipedia


李 登輝(り とうき、リー・テンフェ、1923年(大正12年)1月15日 - )は、中華民国の政治家・農業経済学者。元・中華民国総統(1988年 - 2000年)。コーネル大学農業経済学博士、拓殖大学名誉博士。信仰する宗教はプロテスタント・長老派。日本統治時代に使用していた名は岩里政男(いわさと まさお)。

蒋経国の死後、その後継者として中国の歴史上初めて民主的な手続きを経て一国のトップとなった。中華民国総統、中国国民党主席に就任し、中華民国の民主化・本土化を推進した。中華民国が掲げ続けてきた「反攻大陸」のスローガンを下ろし、中華人民共和国が中国大陸を有効に支配していることを認めると同時に、台湾・澎湖・金門・馬祖には中華民国という別の国家が存在するという「中華民国在台湾」を主張、その後さらにこの国のことを「台湾中華民国」と呼ぶようになった。北京政府との内戦状態の一方的終結宣言は、内戦を理由に存在し続けてきた治安法「動員戡乱時条款」を廃止させ、政治の「民主化」を推進させることとなる。また、総統在任中経済発展についても大きな成果を上げている。

総統職と国民党主席を退任した後は、「台湾」と名前の付いた初めての政党「台湾団結連盟」を自ら中心となって結成し、「台湾独立」運動の事実上の指導者と考えられている。

[編集] 生い立ち

1923年1月15日、台北州淡水郡三芝庄(現在の新北市三芝区)埔坪村の「源興居」で李金龍と江錦の次男として生まれる。兄は2歳年上の李登欽(日本名:岩里武則)であり、日本統治時代にフィリピンにて大日本帝国海軍二等機関兵(戦死後、「上等機関兵」)として日本軍人として参加し戦死している。このほか弟の李炳男がおり、こちらは貿易業に従事していた。

父・金龍は警察官であり、経済的に安定した家庭環境により幼少の頃から教育環境に恵まれていた。父の転勤にしたがって登輝は6歳から12歳までの間に汐止公学校、南港公学校、三芝公学校、淡水公学校と4度の転校を繰り返した。淡水公学校卒業後は私立台北国民中学(現在の大同高級中学)に入学したが、1年後の1938年には淡江中学校に転校している。淡江中学校では学業に専念し首席の成績で卒業、卒業後は台北高等学校に合格している。

台北高等学校に入学した登輝は、1年次に台湾総督府が推進した皇民化運動の中で展開された改姓名運動の中、岩里政男と改名。流暢な日本語を話す。本人も「21歳(1945年)まで自分は日本人であった」と表明している[1](現在も来日時は日本語を使用している)。

[編集] 京都帝国大学

1943年9月、台北高等学校を卒業。同年10月、京都帝国大学農学部農業経済学科に進学した。農業経済学を選択した理由として、本人によれば幼少時に小作人が苦しんでいる不公平な社会を目の当たりにした事と、高校時代の歴史教師である塩見薫の影響によりマルクス主義の唯物史観の影響を受けたこと、農業問題は台湾の将来と密接な関係があると思ったことを理由として挙げている[2]

大学時代は日々深刻になる食料不足問題に悩みながらも、自ら「農業簿記」を学び、同時にマルクスや河上肇などの社会主義関連の書籍に親しんでいた[3]。戦争が激化すると、ほかの文科系学生と同じように学徒出陣により出征する(農業経済学を専攻している学生は、農学部所属ではあったが、文系として扱われた)。大阪師団に徴兵検査第一乙種合格で入隊し、1944年に台湾に一時帰って基礎訓練を終えた後、日本に戻り習志野陸軍予備士官学校(日本陸軍予備士官第11期生)の見習士官に任命され、その後名古屋の高射砲部隊に陸軍少尉として配属になり、終戦を名古屋で迎えた。ちなみに、召集された際、日本人の上官から「お前どこへ行く?何兵になるか?」と聞かれ、迷わず「歩兵にしてください」と言い、加えて「二等兵にしてください」とまで要求したところ、その上官から「どうしてそんなきついところへ行きたいのか」と笑われたという[4]。また、1945年3月10日の東京大空襲の際には、超低空で帝都へ侵入するB-29を迎撃、激しく砲撃を繰り返し、かなりの損害を与えたことを述懐している。

[編集] 台湾大学

1945年に日本の終戦を迎え、日本軍撤退後の1946年の春、国民党占領下となった台湾に帰り、台湾大学農学部農業経済学科に編入学した。帰国して間もない1947年、二・二八事件が発生する。それまでの経歴から判るとおり二等国民扱いだった台湾人としてはもちろん、日本人としても非常に高度な知的訓練を受けており、この事件の際は真っ先に粛清される危険性を持っていたため、知人の蔵にかくまわれた[5]

呉克泰の証言では、台湾に帰国後間もなく、彼の要請を受け、(中華人民共和国の建国、中華民国の台湾実効支配が行われる1949年の前)1946年9月に中国共産党に入党し、国民党による二・二八事件に反発する暴動などに参加したが、2年間で離党したという[6][7]。また、中国共産党に入党した登輝がのちに中華民国副総統に昇進したとき、国民党は「共産党員」という登輝の記録を故意に破棄したという。

このことに関して、共産党員になるには党組織による観察が一年以上必要なので、台湾に引き揚げてから二・二八事件が発生するまでに共産党員になるのは不可能だとする意見がある[8]

2002年のインタビューで、登輝は自身が共産主義者であったことを認めた。登輝は同インタビューの中で、共産主義理論をよく理解しており、共産主義は失敗する運命にあることを知っているので、共産主義には長い間反対していた、と述べた。登輝は、自身の国民党への強い憎悪のために共産党へ入党した、とも述べている[9]

1948年に農学士の称号を得る。1949年、台湾大学を卒業し、同大学農学部の助手として採用された。同年、淡水の地主の娘であり、台北第二女子中学(日本統治時代は台北第三高女と称し現在は台北市立中山女子高級中学)の曽文恵と見合いにより結婚している。

[編集] アメリカ留学

1950年に長男李憲文を儲け、1952年に中美(米)基金奨学金を獲得しアメリカに留学、アイオワ州立大学で農業経済学を研究した。1953年に修士学位を獲得して中華民国に帰国、台湾省農林庁技正(技師)兼農業経済分析係長に就任する傍ら、台湾大学講師として勤務することになった。

その後1957年に中国農業復興聯合委員会(略称:農復会)に就職、研究職としての職歴を重ねた。同時に台湾大学助教授を兼任した。また、1961年にキリスト教に入信する。

1965年、ロックフェラー財団及びコーネル大学の奨学金を得てコーネル大学に留学する。同大学では農業経済学を専攻する。1968年5月に農業経済学博士号を獲得。このときの博士論文である Intersectional Capital Flows in the Economic Development of Taiwan, 1895-1960 (1895年から1960年の台湾の経済発展におけるセクター間の資本の流れ)は全米最優秀農業経済学賞を獲得し、1971年にコーネル大学出版社から出版されている。博士号を受けて1968年7月に台湾に帰国、台湾大学教授兼農復会技正(技師)に就任している。

2012年4月16日月曜日

アンネの日記とユダヤ人虐殺:ホロコースト Holocaust;鳥飼行博研究室



写真(上)1944年5月,アウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所に到着したハンガリー・ユダヤ人:胸につけた黄色のダビデの星は,ユダヤ人を差別するために,つけさせられた。収容所に到着し,労働不能者として選別された婦女子,老人は,強制収容所(concentration camp,独語Konzentrationslager:KZラーゲルあるいはKL)のバラックに入る。しかし,そこは,殺害までの一時的な控えの場所だった。数十ヵ所ある強制収容所のうち,ガス室を完備していたのは,アウシュビッツ=ビルケナウ,ヘルムノ,ベルゼク,トレブリンカ,ゾビブル,マイダネックなどドイツ占領下ポーランドの絶滅収容所だけだった。(オーストリアのマウトハウゼン収容所のガス室では,殺戮は限定されたものだったようだ。)ガス室での殺戮は,1942年に開始,1943-1944年に本格化し,1944年10月には中断された。アンネ・フランクは,1944年,15歳でアウシュビッツに送られ,再移送されたベルゲン=ベルゼン(Bergen-Belsen)収容所(ガス室はない)で,1945年3月頃病死。ユダヤ人絶滅は,ガス室だけでなく,銃殺・拷問などの処刑,奴隷� �働・物資不足の下の過労死・病死・衰弱死によっても実行された。殺害人数は,ガス室に拠らないほうが多いとも考えられる。写真は,Photo Archives: United States Holocaust Memorial Museum(米国ホロコースト記念博物館)とYad Vashem :The Auschwitz Album(イスラエル・ホロコースト博物館)引用。米国ホロコースト記念博物館は,1993年にワシントンDCに建設,来訪者2500万人。

Anne Frank/B. M. Mooyaart/Eleanor Roosevelt(1993)The Diary of a Young Girl BANTAM BOOKS, USA;アンネ・フランク(1929年6月12日ドイツのフランクフルト生まれ)は、十三歳の誕生日(戦時中の1942年6月12日),テーブルに日記帳があるのを見つけた。戦時中,アムステルダムの自宅に住んでいた時のことである。1944年8月4日,アンネたちの逮捕後,支援者のオランダ人ミープ・ヒースが,部屋に散乱していた日記類を密かに回収・保管。戦後,1945年6月,収容所から唯一人生還した父オットー・フランクは,支援者ミープからアンネの日記を渡され,家族や知人に配慮して日記を編集し,関係者に少数タイプし配布した。その後,日記はHet Achterhuis(隠れ家)の書名でオランダで刊行,評価され,1952年,ルーズベルト元大統領夫人エレノアの序文を得て,英語版「一少女の日記」を出版。これがベストセラーになり,世界各国で翻訳,日本でも1952年『光ほのかに−アンネの日記』が刊行。
《Anne Frank and the Holocaust - related Web sites》/アンネのいとこ:バディ・エリアスさんのお話/福山市ホロコースト記念館/アンネ・フランクの年譜》/アンネの恋人ペーター・シフの写真
◆2012年4月「アンネの追憶」が公開されるが、これはアンネの親友Hannah Goslarの証言を記録したAlison Leslie Gold著Memories of Anne Frank: Reflections of a Childhood Friendを映像化したもの。
◆2011年9月2日・9日(金)午後9時,NHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」ルドルフ・ヘス及びレニ・リーフェンシュタールに出演。
◆2011年7月刊行『写真・ポスターに見るナチス宣ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社では、日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
◆2011年3月2日,BBC News"Sony apology over Japan boy band Kishidan's Nazi gaffe"によれば、親衛隊の制服を着用したTV演出をしたSony Music Artists・Entertainmentは、ユダヤ人団体(Simon Wiesenthal Center)の抗議を受け、関係者すべてに深く謝罪し,この映像を放映せず、制服も破棄したと伝えた。
◆2010年10月30・31日,武蔵野芸能劇場の「空の記憶」で、大人になったアンネの思いが演じられた。
◆2009年10月1日,ユーチューブOfficial Anne Frank Channelで,1941年,隣人の結婚式に窓から顔を出すアンネ・フランクの動画(20秒間)が無料公開された。この一日で本サイトのアクセスは1万3000件を超えた。人種民族差別への関心が高まっていることが実感できた。

◆アンネの日記類は,2009年11月1日からアンネ・フランク博物館で,永久展示。これは,日記3冊、短編小説をつづったノート、気に入った言葉を書き留めていた用紙など、アンネ自身が書いたもの。1944年5月から日記を破れやすい用紙数百枚に書き直していたが、そのうちの40枚も交代展示される予定。日記類はアンネの父オットー・フランクがオランダ戦争資料館(Netherlands Institute for War Documentation)に寄付したもの。
◆NHK海外ドラマ「アンネの日記」が放映され,2009年7月31日-8月13日で本サイトのアクセスは3736件に達した。
◆2009年7月30日,国連教育科学文化機関(UNESCO)は、貴重資料の保存と認知度向上を目的とした「世界記憶遺産」(Memory of the world)に「アンネの日記」が「世界中で読まれた書籍トップ10のうちの1冊」として,登録したと公表した。
【2009/2/5/AFP】ローマ法王ベネディクト(Benedict)16世は,アルゼンチンの放送局が放送した,スウェーデンのTV番組でガス室は存在しなかったと発言した英国リチャード・ウィリアムソン(Richard Williamson)司教の破門を約20年ぶりに解除。アンゲラ・メルケル(Angela Merkel)独首相は3日、法王の行動は看過することはできないとし、バチカン当局に対し、ナチス・ドイツのホロコーストが「否定できない事実だと明確にすること」を求めた。
◆2009/2010年,NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』にゲスト出演。1944年7月21日(事件翌日),アンネは日記に,若いドイツの将校,伯爵によるヒトラー暗殺未遂のニュースを書きとめ,ヒトラーが倒されれば軍事独裁政権を作って連合国と講和したであろうと予測。

写真(右)アウシュビッツ収容所に到着したユダヤ人:写真はYad Vashem (イスラエル・ホロコースト博物館)引用。アウシュビッツ収容所とは,アウシュビッツ第一基幹収容所,大規模なガス室のあったアウシュビッツ第二収容所(ビルケナウ絶滅収容所),軍需工場のあるアウシュビッツ第三収容所ブナの総称で,アウシュビッツ=ビルケナウ収容所ともいう。現在のポーランド南部オシヴェンチムにあった。ユダヤ人,ロマRoma ("Gypsies")),ソ連軍捕虜などが収監され,アンネも2ヶ月間いた。列車でアウシュビッツに到着したユダヤ人たちは,下車後,労働可能者は,収容所や工場で奴隷労働に従事させられた,労働不能者に選別されると,一時収容後あるいはそのままガス室で処刑された。しかし,それを知らないユダヤ人は,家族が一緒にいることを希望した。ユダヤ人虐殺は,冷徹に考えられた効率的な仕組みで,ユダヤ人が反抗しないように,労働すれば自由になれると錯覚させた。

1944年5月3日のアンネの日記「一体全体,こんな戦争をして何になるのでしょうか。なぜ人間はお互いに仲良く暮らせないのでしょうか。何のためにこれだけの破壊が続けられるのでしょうか。」
 「いったいどうして人間は,こんなに愚かなのでしょうか。私は思うのですが,戦争の責任は,偉い人や政治家,資本家にだけあるのではありません。責任は,一般の人たちにもあるのです。そうでなかったら,世界中の人々はとうに立ち上がって,革命を起こしていたでしょう。」
 アンネは,戦争の大量破壊・大量殺戮に対する大きな懐疑を呈していると同時に,総力戦における一般市民の重要性を認識していた。「人間の持つ破壊の欲望,殺戮の欲望」がプロパガンダによって煽動されていることを見抜いていた。

 しかし,アンネは絶望してはいない。同じ日の日記末尾:「一日ごとに自分が精神的に成長してゆくことを感じ取れます。オランダ解放が近づきつつあること,自然がいかに美しいかということ,周囲の人々がいかに善良であるかということ,この冒険がいかに面白く,意味深いものであるかを感じています。だったら,なぜ絶望しなくちゃならないのでしょうか。
                               じゃあまたね,アンネ・M・フランク」

写真(上)アンネ・フランクの第一冊目の日記原本:1942年6月12日十三歳の誕生日プレゼント:アンネは,1942年12月まで,半年間,この日記帳をつけた。第一冊目なので,写真も多数貼ってある。第二冊以降は,学校ノートや紙切れ(ルーズリーフ)に日記をつけた。1944年8月,15歳でヴェステンボルクWesterbork収容所,ついでアウシュビッツ収容所に送られた。2ヶ月後,ベルゲン=ベルゼン収容所に移送され,病気で衰弱,1945年3月頃死亡。1944年3月25日「死んでしまった後も生き続ける仕事がしたい」と日記に書いたアンネは,それを果たした。日記原本の写真は,United States Holocaust Memorial Museum(米国ホロコースト記念博物館)引用。

Johanna Hurwitz/Vera Rosenberry(1999) Anne Frank: Life in Hiding (Avon Camelot Books) 「アンネ・フランク:隠れ家の生活」アンネは,日記に「後ろの家」と名づけ刊行する事を夢見ていた。日記の文章は,表現が軽妙で,内容も濃い。親族・同居人・友人に対する酷評,ペーターとの恋愛、男女への興味にもページを割いている。そこで,微妙な箇所を削除,修正して出版された。出版物「アンネの日記」の普及版、完全版、研究版という区分は、編集や出版社の都合による。日記原本は、日記帳、複数の学校用ノート・会計帳簿、多数の紙切れに書かれており,それらは,戦時中の潜行生活、物不足を反映して、中古で既に書き込みのある紙やノートだった。これが,日記は,アンネの筆跡でない,自作でないとの誤解を生んだ。 

  The Diary of a Young Girlは,1952年刊行「アンネの日記」英語版で,ベストセラーになった。アンネは,ホロコースト犠牲者の象徴になったが,それゆえ,当初は,アンネの存在自体が疑われ,「日記」を貶めるプロパガンダが展開された。日記を読まないうちに,日記の文書は,十三四歳の少女が書けるものではないと思い込み,姉マルゴーや他人のノート書き込み・戦後に研究者や編集者が書き込んだボールペンや鉛筆の書き込み・筆跡を取り上げて、日記が捏造だと誤解した。「アンネの日記」原本が、複数の日記帳・中古の学校用ノート・中古の会計帳簿、中古の多数の紙切れ(ルーズリーフ)から構成されていることに思い至らず議論している。戦時中の潜行生活・物不足の中で手に入れた「日記を書いた紙」は、新品ではなく、劣悪な紙や書き込� ��の古紙だった。日記の真偽は,裁判・科学的検証によって明らかにされたが、日記捏造説,日記焚書の発生は,ユダヤ人虐殺の歴史を共有できていないことの証明でもある。

アンネ・フランクは,アムステルダムの隠れ家から一切外出ができず,親衛隊SS・ドイツ秘密警察(ゲシュタポ)・オランダ警察(グリューネ・ポリツァイ)に発見されることを恐れていた。ユダヤ人迫害の恐怖と不安を克服しようと日記を書き進めた少女は,魂の内側で思索を深め,社会的関心を広げた。表現力も,書体も豊かになった。けれども、文才に恵まれてた大人では,あのような生の文章を書くことはできない。

アンネの日記を「十三四歳の少女が書いたはずがなく大人の捏造だ」と喧伝する者は,自分の文才と比較したのか、日記を読んでいないかであり、少女の鋭敏な感覚にも,25ヶ月間の苦しい隠れ家生活の恐怖にも思い至ることがない。

アンネ・フランクは,迫害の中で身体的に拘束され、� �自由に苦しんだが、そのことがかえって,アンネの魂を自由にした。少女は,限りない精神世界を形成し,その一端を「複数の日記帳や多数の紙切れ」に書き記した。それは、若者の、少女の理想主義,向学心を綴った生の文章だ。

戦争では,祖国防衛,民族・家族を守るの戦いとして,戦争の大儀,聖戦が語られてきた。戦争を望まなかった女性も子供も,戦争に巻き込まれた。アンネ・フランク(1929年6月12日ドイツのフランクフルト生まれ)も,1939年9月,僅か十歳で第二次世界大戦に直面した。

オランダは,1940年6月,ドイツに完全に占領され,連合軍による欧州解放が待望された。日記には,ラジオ放送に聞き耳を立てて,一喜一憂する隠れ家住人たちの様子が生き生きと描かれている。
しかし,アンネ・フランクは,戦争は民族栄光の歴史だという戦争英雄叙事詩、聖戦や自存自衛の戦いはなくなることがないという戦争必然説・ニヒリズム(虚無主義)を信じてはいなかった。戦争は政治の延長線上にあるとするクラウゼヴィッツ亜流の戦略論に� �陥らなかった。

Miep Gies/Alison Leslie Gold(1988)Anne Frank Remembered: The Story of the Woman Who Helped to Hide the Frank FamilyTouchstone Books :「日記」以外にも,アンネ・フランクに関する映画や演劇が作られた。しかし,隠れ家住人を助けたオランダ人の活躍も見逃せない。日記に実名で登場する(ありふれた名前の)ミープ・ヒースMiep Gies(1909-)が語る人間味溢れる物語からは,婦人のやさしい気遣い,ユダヤ人を危険を承知で庇護したレスキュアーズの勇気が伝わってくる。そこには,ユダヤ人迫害に協力した,あるいは協力せざるを得なかったオランダ人の話も出てくる。ミープは,アンネが亡くなった事をオットーから聞いて,アンネの日記をオットーに渡した。女同士の信義として,日記はアンネに直接返そうと考えていたが,それが不可能になったからである。
  <「アンネの日記」読書感想文>
 日本の学校生で,「アンネの日記」を手にした人は多い。しかし,全部読んだ人は少ない。ある教諭は,図書人気投票で2名しかいなかった「アンネの日記」を第一位に偽装したという。十三四歳の少女が「アンネの日記」のような名文を書けるはず� ��ない,という大人は,日記本文を読んでいないに違いない。日記を通読すれば,前半では,家族,隠れ家の住人の話,個人的な不満,後半は,ペーターに関することなど,日常の出来事が多い。
 読書感想には「若干の退屈なエピソード(Wikipedia)」といった読み方から,「アンネに年齢が近かったせいもあり、親近感を感じた(Amazon.co.jp)」「私は異国の少女の考え、想い、そして好きなものや嫌いなもの、夢中になれるものなどが、自分とまったく変わらないと知った」として,現在の自分と戦時中の隠れ家生活をしていたユダヤ人アンネとの親近性を示すものも多い。
 「軍事マニアから見て,興味ある部分は殆どなし。」「情勢を巡る話しもあるが、寧ろ大半は思春期の少女の内面の話しである」「戦争ものとか抜きにし� ��、アンネの悩みながら成長しようとする姿勢はすごいなと思う。ただ、長いので飽きた。不謹慎だけど-----デュッセルさんが何者かに殺された!デュッセルさんはみんなに嫌われていたので、みんなに動機はある。犯人はこの隠れ家の中にいる!みたいな展開起こんないかな〜って、思うぐらいイベントが少ない。」

 このように,日常の出来事の記載が多い「アンネの日記」の行間に示されている戦争や人種民族差別への関心は,必ずしも高くはない。アンネの置かれた状況を抜きに「日記」を読めば,親近感からくる評価が至当かもしれないし,親近感から,戦争や差別への関心に向かうこともある。実際,戦争と差別に思い至った少年少女の読書感想文も少なくない。

  6年B組 川口は,「『人と話したい。自由になりたい。お友達がほしい。ひとりになりたい。そしてなによりも・・・おもいきり泣きたい。たくさんの願望に胸がはちきれそうな気がしますし、泣けばずいぶんさっぱりするでしょう。でもそれができません。』どうして。今の時代にはごく自然にできることができなかったのだろう。」として迫害の時代と現代の自分との差異を明確に意識している。

 中2年・浅井は,「私には今日も学校という世界があり、私をいろいろな角度から見てくれる先生や友達がいる。これから私はどれだけたくさんの自分と出会うことだろう。新しい自分の像と出会うたびに嬉しいと思ったり、反対に深く思い悩んだりすると思う。そういうことを繰り返しながら、限られた空間と人たちの中でしか生きることのできなかったアンネの人生に時に思いをはせ、無限の空間とたくさんの人たちの中にいる自分の人生をしっかりと歩んでいきたい。」と,時代背景を理解した上で,将来の希望を掴み取った。

 1年 大河 は,「おなかが空いたら何かを食べるし、部屋が暗いと思ったら何時だって電気をつけて明るくすることができる。自分が欲しいものは、充分なお金さえあれば手に入れることができる。バスだって電車だって車だって乗れる。私は十六歳の高校一年生だけど、日本の高校生なら、ほとんどの人がこんな生活を送っているはずだ。----ごく普通の生活だ。では、これが民族だとか、宗教の違いだとかで縛られてしまったらどうなるだろうか。」とアンネを襲った人種民族差別の恐怖と不安を自分に置き,思索を深めた。

 高等学校3年 斉藤は,「今になって読み返してみても、戦争の中の『日常』を私は勘違いしているのに気づいた。アンネの日記には、喧嘩の絶えないこと、支えてくれる人たちへの感謝、家族や共に暮らす人々への不満など、あらゆる感情が書かれている。私は彼女の日記から、悲しみの感情ももちろんのことだけれど、戦時下であっても、人は当り前の「日常」の感情を、簡単には手放せないのだと改めて実感した。  今も続く戦争の渦の中で暮らす人々も、きっと同じように「日常」の感情を持っている。私は、毎晩安心して眠りたいと改めて考えることはないが、世界には毎晩安心して我が家で眠れない子どもたちがいることを、新聞で知った。----夜、安心して眠りたいというのも『日常』の誰もが持っている感情だが、それを満たせる人と満たせない人がいる。満たせる人は、そんな感情も忘れてしまっているけれど、忘れてはいけないのだ。『日常』の感情が一番単純で一番大切な感情だと忘れなければ、人の命を平気で奪う戦争は起こらないのではないか。」と,平和と戦争と接点を日常に認識し,戦争の本質を読み取った。

 向陽小学校6年 辻は、「私はアンネたち、ユダヤ人がなぜあのような差別を受けなければならないのか、いまでも納得がいきません。みんな同じなのに差別するなんでおかしいです。私だったら差別なんかしたくないです。そんなことをやっても、人が傷つくだけだし、いいことなんて一つもないです。もしも、自分がユダヤ人だったら…と考えると私はぞっとします。そんなことを考えずに、こんな行動をとったヒトラーを許せないという気持ちが込み上げてきました」と差別に反対する姿勢を明らかにしている。

 新池中学校2年 中村谷は、「私の今の生活は、食べ物や衣服に不自由なく、自分の意思で行動を決めることができます。私は、それが普通で当り前の様に感じていましたが、アンネから考えてみれば、これ以上の贅沢や幸せはないと思います。アンネは日記帳に「人間は、本当は良い人だと信じます」と書いてあります。アンネはこんな恐ろしい時代の中でさえ人を信じて恨まず平和を願っていたことに、私は感動しました」と日常生活を安寧におくることへの感謝とアンネの強い意志に共感している。 

◆『アンネの日記』を行間まで読み,ユダヤ人迫害と戦争の理由・経緯を知れば、人種民族の差異,戦争の大義が如何なるものであろうとも、差別と戦争は、人類が自ら同胞に対して犯してきた愚行であることが確信できる。差別と戦争は起こってしまったのではなく、人類自らが引き起こした。経済力と軍事力に支えられた迫害と破壊・殺戮を見れば,戦争は政治の延長にすぎないというニヒリズムの愚かさ,冷淡さに気づかされる。だが,我々の祖先も、私たち自身も加担した迫害と戦争を再び見つめるには、勇気と内省が求められる。


序 帝国主義と人種民族差別:ナチスの反ユダヤ政策

1.ファシズムの台頭とナチスの政権獲得

(1)ナチスの政権獲得・反ユダヤ政策

1933年1月30日,アドルフ・� ��トラーが首相に任命され,ナチス党The Nazi Party (NSDAP)がドイツの政権をとると,突撃隊stormtroopersによるユダヤ人への迫害,ユダヤ人商店の破壊が横行した。アンチ・セミティズムAnti-Semitismは,人種民族差別の意識・偏見にとどまらず,ナチスドイツによる基本的人権の制限・迫害となった。
言論の自由が封じられ,ドイツ民族の優越性,ユダヤ人の邪悪性に疑念を抱く反ナチスの思想・言動は、弾圧された。

 ロシアのボルシェビキ(共産主義者)政権,その煽動による革命の波及を恐れた保守政治家・資本家・宗教家の一部は、ファシズムを反共に利用しようとした。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)は,ユダヤ人が狡賢い,貪欲な資本家だ,暴力革命を企てている,としてアンチ・セミティズムAnti-Semitismを喧伝し,第一次大戦の敗戦,ベルサイユ条約によるドイツ 抑圧は,ユダヤ人の陰謀とされた。

ファシズムは,軍備と領土を拡張し、世界秩序の再編成を唱え,ヒトラーは、東欧・ソ連にドイツの生存圏(Lebensraum)を獲得することを1925年の著作『我が闘争』で公言していた。ドイツ人弱体化を企てるユダヤ人は,共産主義者で,ペストと同じように人種汚染を進める下等劣等人種であるとアンチ・セミティズムAnti-Semitismを主張した。

◆ヒトラー『我が闘争』では,ユダヤ人が共産主義と結びつき,ドイツの弱体化を企てているとした。ユダヤ人が操る共産主義のソ連,ユダヤ金融資本に踊らされているアングロサクソン大英帝国と堕落した物質文明アメリカが,ドイツの勢力拡大を妨害する,と考えた。下等人種劣等民族ユダヤ人は,優秀なドイツ人を人種汚染する。ユダヤ人共産主義者がソ連を支配し,ユダヤ人金融資本がアメリカと大英帝国を操って,ドイツに戦争を仕掛けようとしている。したがって,ドイツの敵ユダヤ人を排除しなくてはならない。

1933年2月、国会放火事件後、テロを企てたとして共産主義者・反体制派を一斉検挙,基本的人権を制限する大統領緊急令を発布,3月、全権委任法Ermächtigungsgesetz(Enabling Act of 1933)によって、ナチ党独裁を議会に認めさせた。ナチスは,暴力を用いて,一見すると合法的な一党独裁を成立させた。

 1933年5月の焚書対象は,主にユダヤ人作家だった。「本を焼くものは,人をも焼くようになる」とのハインリヒ・ハイネの言葉通り,8年後,ナチスによるユダヤ人虐殺が本格化する。

アンネの父資産家のオットー・フランクOtto Heinrich Frank(1889-1980)も,1933年,ドイツのユダヤ人迫害を前に,オットーは,オランダのアムステルダムで新たに事業を展開することを決めた。フランクフルト・アムマインから,オランダ国境近くのアーヘンに移り,1933-34年にオランダに亡命・移住した。

<アンネの国籍・市民権>
 1929年6月12日、ドイツのフランクフルトでドイツ人の両親の間に生まれたアンネは,ドイツ人である。しかし、ナチ党のユダヤ人迫害が強まった1934年3月、フランクの一家は、アンネ5歳の時、オランダのアムステルダムに移住した。この事実上の亡命によって、ドイツ国籍を消失したとすれば,一家は無国籍者となる。アンネは、戦時中の日記に「立派なオランダ人になりたい」と書いたが,1934年に移住してきたため、オランダの国籍は持っていない。

< p> BBC News(Anne Frank status campaign fails)によれば,オランダのTV局KPO(Katholieke Radio Omroep:カトリック・ラジオ・ブロードキャスト)が、「オランダの偉人」番組で,アンネを取り上げ,国籍を申請した。2004年10月,オランダ司法省は「死後の国籍取得」を却下した。実際,彼女が人生の三分の二を過ごしたフランクフルトを軸にすれば,アンネは,亡命ドイツ人である。2003年ドイツの偉人では,アンネは134番目だった。

◆マザーテレサの国籍についても,厳格に規定・合意できないほど,人種民族の区分は,曖昧である。人種の連続的な特徴変化・DNAをふまえれば,肌の色,鼻の形,目つき,体臭を基にした人「種」など存在しない。身体的特徴の違いは,「亜種」にすぎない。

(2)独裁者ヒトラー総統の誕生
1934年8月2日,国家元首ヒンデンブルク大統領が死去すると,アドルフ・ヒトラー首相は,大統領職を兼務,新たに総統(Führer:フューラー)の職に就いた。そして,ドイツ軍全兵士に陸海空総司令官を兼ねる総統への絶対忠誠を誓わせた。

ポスター右:ドイツ少女団(Bund Deutscher Mädel)「青年による総統への奉仕」Jugent dient dem FührerChris Crawford引用。
ポスター右:ヒトラーユゲント(Hitler-Jugend)「明日からの将校」Offiziere von morgenDer Zweite Weltkrieg 引用。「私は,若者から始める。われわれ大人は疲れ果てている。----ドイツの大人は,屈辱的な過去の重荷を背負わされている。---しかし,青少年たちは,実にすばらしい。この世に,これほどのものたちはいない。若者や少年を見よ。なんという逸材だろう。彼らがいれば,新しい世界を作ることができる。」1933年,ドイツの青少年は,アンネやペーター・ファン・ペルス(アンネの恋人)などユダヤ人は,下等人種と信じていたのであろうか。

ヒトラー総統の「偉業」は,第一に,全国に規律を行き渡らせたことである。労働者のストライキやデモは鎮圧され,労使協調が図られた。そして,青少年は,ヒトラーユーゲントで,鍛えられた。

ヒトラーユーゲントHitler Jugendは1922年設立。1932年の団員数は5万5000名に過ぎなかった。1933年にナチス政権が成立すると,団員数は1933年末に56万8000名に増加する。その後,キリスト教団体,社会民主党・共産党主導のドイツ少年少女団体は,圧迫され,解散された。1936年,解散メンバーを取り込み,ヒトラーユーゲントの団員数は543万7000名に急増,1936年ヒトラーユーゲント法The Hitler Youth Lawによって,全ドイツ青年が加盟を義務付けられた。

ローマ教皇Benedictus XVI(ドイツ人Joseph Alois Ratzinger)も1941年,14歳で加盟,1943年,16歳でミュンヘンのBMW工場を守備する高射砲部隊に配属。

ヒトラー総統は,ニュルンベルク党大会で「これから千年間、ドイツは二度と革命を経験することはない」と「ドイツ第三帝国Das Dritte Reich は千年続く」と予言した。

ユダヤ人差別として,1933年4月,公職追放,7月, ワイマール共和国後のドイツ・ユダヤ人の国籍の剥奪,10月,著作禁止,1934年,医師.薬剤師新規就労禁止,1935年7月,兵籍剥奪,9月,ニュルンベルク法制定,11月,選挙権剥奪,医師・教授・教員への就業禁止と続いた。
ニュルンベルク法は,下等人種ユダヤ人がドイツ人の血を人種汚染するとした「ドイツ民族の純潔をドイツ国民に存続させる」人種差別法である。ユダヤ人を,似非科学で定義した上で,ドイツ国籍者・ドイツ系民族と結婚することを禁止した。

1938年11月、ナチス突撃隊 Sturm Abteilungはユダヤ人商店を破壊したが,これは,ガラスが飛び散った「クリスタルナハトKristallnacht(水晶の夜)」(Novemberpogrome 1938 )と呼ばれた。

ナチスによれば,ユダヤ人は,共産主義者として,反ドイツの策謀を巡らしている。アメリカでは,新聞・ラジオ・金融システムを駆使して,政治家を選挙と資金を通じて操り,民主主義の名の下に衆愚政治を行っている。卑怯な悪賢いユダヤ人は,第一次大戦時,背後にいて,共産主義を広め,ドイツ民族を打ち倒す陰謀・革命を企てたと,ナチスは喧伝した。ソ連の共産主義もアメリカの拝金主義も,ユダヤ人支配の表裏である。ユダヤ人にとって,イデオロギーは優秀なドイツ人を貶め,人種汚染をするための手段である。このような人種民族差別・迫害が,ドイツ政府によって公然と行われた。

⇒ナチス政権ヒトラー総統の再軍備・人種民族差別・思想統制

2012年4月14日土曜日

コラム:東京での生活


【 HOME > 東京での生活 > 1〜8号 】

第1号

 このコラムはインド料理には全く関係ないんだけど、 だけど、色々楽しい事があったなあと思い、私の長年の歴史(笑)を綴っていきたいと思います。

 皆さんの疑問は、何故私がインド人と結婚したのか?と第一に思われると思いますが、正直な所、この人と友達になっておけば、本格的インド料理が作れる様になるな。
友達にインド料理が作れると自慢出来るな。と思ったという事に尽きます。あまり物事を深く考えないので、絶対幸せにするからと毎日プロポーズする夫に出来ないと思うけど、なら挑戦してみる?という感じで結婚致しました。

 結婚は、まず、籍を入れるのも大変でしたが、(インドコラムに記載)新居を探すのが、これまた大変で、当時はバブルが崩壊して下っていた時期だったのですが、建設関係の仕事はまだまだ多く、インドや、パキスタン等から� ��稼ぎ外人が東京には一杯来ていたのでした。

 インドからは当時観光ビザがいるので、
インド人の来日はちょっと大変だったのですが、
パキスタンからは双方ビザフリーだったらしく、どんどんパキスタン人がやって来るんですね。それで、パキスタン人とインド人ってのは仲が悪いのですが、外国日本での事、道で出会えば、情報交換をする訳です。

 取りあえず、日本に来て、出稼ぎして
お金を貯めて、送金すればいいわけで、税金も払わなくていいし、少々法に触れても平気な訳です。

 そこで住居費を浮かす為に彼らは一つの部屋に大勢で住む訳です。道で同じ国の人と出会えば、情報交換。私も田端にあるマンションを訪れた事がありますが、山手線田端に歩いて5分2K(家賃8万)に8人〜10人位 住んでました。
どうやって過ごすか、、、押し入れが二つありましたが、2段ベッドとなってました(笑)上にも下にも人が寝ていましたよ。それで4人は寝られますからすごいもんです。夫の友人だった訳ではなく、夫が道で声をかけられて、ご飯に招待されたんですけど、違う意味で感心しました。

 埼玉県川口市なんかは当時、そういう出稼ぎがぞろぞろいまして、駅前にはアジア、中東系外人がうろうろしてるので、部屋を探しやすいのかな。と思って、川口で部屋を探そうとしたんですけど、私が不動産屋に夫同伴で入ると、「こんにちは。」も言わないうちに、「駄目駄目、部屋はないよ。」と断られていました。
何処の不動産屋に行っても同じ。よっぽど大家さんは困ってるとは思ったけど。

 ちゃんと職にも� ��いているインド人なのに、部屋が探せないのはどうかな?夫がアメリカ人ならなあすぐに部屋貸して貰えたんだろうな。と今後の結婚生活を考えて、暗〜い気持ちになりました。結果として、夫を連れての不動産探しは断念して、私一人で行いました。自分の名刺を出したら、夫がインド人だと伝えるも、すんなり部屋が決まりました。

 これは、結婚第一の大きな試練。大きく考えさせられる事件でした。

第2号

 インド人と結婚した私が言うのも何だけど、外国人のかたまりはちょっと怖いものです。私が住んでいた東京の綾瀬にはパキスタン人やイラン人が大勢いまして、結構群れで歩いていたりします。
そして、新聞でもそういう人達が日本人を殴っただとかいうニュースが新聞に載ったりしていたもんですか ら、私は常にインド人を見てるけど、さぞかし、外国に縁のない方は怖いだろうなあと思ったものです。

 私の夫は自分はきちんとしたビザがあって、働いているのに、と
こぼす事がありましたが、、そう!そうなんです。ビザを持っていない人の方が金持ちだったりする訳です。

 何故なら、雇う側は大きな企業は別だけど、小さな所は儲かればいいんです。労働基準法無視して、安く働いてくれる労働力があれば、オッケーです。それでビザのない人達でも何かと仕事が見つかったりする訳です。

2012年4月13日金曜日

̑Qj̓ɂ擾


ɂ́B݂@łB

> Cӂ̔Nx̌̑QjARj̓ɂ擾邽

́Aȉ̂悤ȃR[hŎ擾Ă܂B
悯΁AQlɂĂB

Sub Sample()
  Dim intYear As Integer
  Dim intMonth As Integer
  Dim intWhich As Integer
  Dim intWeek As Integer
  
  intYear = InputBox("N")
  intMonth = InputBox("")
  intWhich = InputBox("扽T̗jłH")
  
  '恛Ťj̏ꍇ
  MsgBox CountWeekday(intYear, intMonth, intWhich, vbMonday)
  '恛T̉Ηj̏ꍇ
  MsgBox CountWeekday(intYear, intMonth, intWhich, vbTuesday)
End Sub

2012年4月12日木曜日

現役最高齢医師に聞く 「情熱」を持って取り組んでほしい!!


――――現役最高齢医師に聞く
「情熱」を持って取り組んでほしい!!

 まもなく95歳になろうとする日野原重明氏は、聖路加国際病院を始めとする7つの財団の理事長を務める。90歳からはじめた遺伝子と老齢化と健康メカニズムの研究や、海外にまで広がりをみせる新老人運動を展開するなど、いまなお精力的に活躍する。
 その一方で、130万部のミリオンセラーとなった『生きかた上手』(ユーリーグ)などの数多くの著作を通じて、医療人の立場から国民を広く啓蒙してきた。
 日野原氏に「医療の問題点」や「看護教育」「医学教育」について、その持論をうかがった。
聖路加国際病院
理事長・名誉院長
日野原重明

聞き手
本誌編集人 谷野勝之
(医業経営コンサルタント)

2012年4月10日火曜日

PSP『那由多の軌跡』はアクションRPGと判明!『四季変化』システムなどゲーム情報をビックカメラがお漏らし : はちま起稿



560 名前: 名無しじゃなきゃダメなのぉ! 投稿日:2012/04/06(金) 21:32:34.74 ID:QFsEghGm

17時ぐらいにビックカメラのサイトで詳細が出てたけど、今は消えてる?
ロストヘブンとか四季がどうこうって書いてあった気がするんだけど

那由多の軌跡 通常版【PSP】

日本ファルコムの大人気RPG「軌跡」シリーズの完全新作『那由多の軌跡』がPSPで登場!
舞台設定、キャラクター、ゲームシステムなど全てを一新!

■ ファルコムPSP作品の集大成!
空・零・碧と続く軌跡シリーズで培われてきた、緻密な世界観描写や壮大なストーリー展開、そして、ファルコムが得意とする爽快感あふれるアクションRPGの長所を組み合わせた集大成作品として新たな「軌跡」を制作!

■ 多彩なアクション
スキル(剣技)/アーツ(四季魔法)/ギアクラフト(特殊能力)の3種類のアクションにより、スピーディで派手な戦闘シーンを演出!各アクションはボタン一つで発動可能になっているため、シンプルな操作で爽快感のあるバトルを楽しめる仕様になっています。